宮崎駿『出発点』

著者はせっかく大手アニメスタジオに就職して修練をつみはじめたのに、時代は手間のかかる美麗な劇場用アニメではなく、安価で大量に仕上げなければならないテレビアニメのものへ移っていく。やればできるはずなのになんでみんなやらないんだと青年の著者がブラウン管にむかってほぞを噛んでいた様子が目に浮かぶのである。

押井守が哲学を武器に、庵野秀明がアニメと特撮の記憶を武器に作品を演出するのにたいして、宮崎駿はアニメがテレビのせいでダメになっていく現場に立ち会うことを強いられた若い頃の苦い経験と(アニメという略称さえ嫌なのだそうだ)、幼少期からの「世界」を造型することへの執念が強力な武器になっているようだ。押井守も落書き風のイラストをよく書くけれど、たいていはキャラがひとりぼつんとしている。宮崎のイラストのようなキャラ同士のかけあいなどはあまり描かれない。

理論武装の必要上、社会批判のつめを研いでいた著者も、湾岸戦争のころから理想を奉じることの欺瞞を悟るようになる。要するに考えることをやめたのだ。

ここ数日宮崎駿の若い頃を調べていたのも、たまたま見た旧ルパンの後半の作品群が、私の目には異様に映ったからなのだが、なるほど、テレビなんて大嫌いだという主張をテレビを舞台に繰り広げていたのが宮崎の30代だったのだ。それは疲れるだろうなと思うのである。壮年期にしかできない仕事だろう、と。

これはべつにこの本に書いてあるわけではないのだが、ある種のアニメファンは漫画のキャラクターが自分に語りかけてくれるかどうかが重要なのだろう。まるでそのキャラクターが生きているかのように作品世界を動き回ることなどは、そういうアニメファンは期待していないのだ。