しかるべく すべからく あしからず(「すべからく」誤用の研究)

その0。

すべからくはかつては名詞だった。「すべきこと」という名詞であった。時代が下って副詞になった。





その1。

「このホテルの部屋はすべからく埋まっている」「あそこのリンゴはすべからく赤い」などは、すべからくの誤用である。

とはいえ、もともと「すべからく」という言葉になじみがないのだ。なじみがないからこそ「すべて」の代用語に使われた際に、違和感を感じない人がいる、ということなのではないか。

「…べく〜する」「〜するべき…」などには現代語として違和感がないが、なぜか「〜するべし」という言切りの形にだけは古さを感じる。この感覚は個人的なものではないだろう。真顔で「べし」「べし」と連発する者がいたら、バカである。昔だって、口語で使う人は案外まれだったのではないか(録音が残っていないのだから好きに言えるのである)。

いま、はてなキーワードの「すべからく」に啓発されている。執筆者氏が挙げた例に「友と交わるには、 すべからく三分の侠気を帯ぶべし」とある。百人一首風に装うと、「友と交わる(際)にすべからく(すべきこと)〜、三分の侠気を帯ぶべし〜」とでもなるか。

執筆者氏はすべからくの転用についていいおよんでいる。「美しいひとの精神はすべからく美しい」などの用例も認めようということらしい。この場合のすべからくは完全に副詞と化していて、名詞にはもどれない。

執筆者氏の意見を聞いても、現代語の範囲でいえば「美しいひとの精神はすべからく美しい」は成り立たないと思う。「美しいひとの精神は美しかるべく美しい」というべきだろう。そしてこの文章は現代語とはいいがたい。「美しいひとは精神も美しい」と素直に表現すべきだろう。



その2。

「すべて」という言葉は、『江戸語の辞典』では項目がなく、古語辞典がみあたらないのでそちらではどうか知らないが、なにか新しげな語感を感じるのだ。

「みんな」は、『江戸語の辞典』では「みな」に転送されて、普通に「皆」の意味である。余談だが、皆目見当がつかない、とは、そういえば、全員の目で見てもわからないという意味であった。

怪しげなことをいうと、「統べられたもの皆」という意味で「全て」なのではないか、と、これは辞書を掘り出したら確認しよう(追記。「総て」は古今和歌集仮名序にすでに出ている)。




その3。

「すべからく=すべて」の誤用は、やはり明治の初期頃にはじまったのではないか。演説するときに、「すべて」とか「みんな・みな」とかは納まりが悪いのである。

はてなキーワード執筆者氏も、呉智英と同じく、「おしなべて」を推奨しているが、私はこれに疑問がある。意味が少しずれるからだ。私は「これすべて」などがいいと思うが、不適切な理由も後述。

演説で声をはりあげる者の身になってみると、すべからくは魅力的である。切れ目なくいける。「す・べ・か・ら・くッ!」と、どの文字も強勢してのばして発音しても、そうおかしくない。「おしなべて」だと、最初の「お」に、どうしても力がこもらないのである。だいたい「御品書き」みたいで、強面がしない。

「これすべて」だと、「これッ! すーべーて…」などと工夫すれば、あるいは演説ばえするかもしれないが、やはり「すべて」の方にまではどうしてもアクセントがいきわたらない。

演説は、よほど事前に文案を練って行わないと、主述が捩じれることなどは頻繁に起る。近代日本人は、字面で遭遇する前から、口語の状況で「すべからくの、結果的な誤用」に出会っていたのではないか。有志は初期の国会の議事録など読んでみると、発見があるだろう(書記が書き直してるかな?)。




その4。

そういえば、明治から終戦をすぎ学園紛争が下火になるまで、ほぼ一世紀ほどが、日本語における「演説の時代」であった。日本人が「演説の時代」に嫌気して、まだ半世紀を過ぎていない。

正式な「すべからく」の用法も、この演説の時代に多く行われたに違いないのだ。「大日本帝國はすべからくッ! 東亜の盟主なるべしッ!!」などと…。

しかしこれも、厳密にいえば誤用なのである。「帝國の繁栄を実現するにすべからくッ! 石油の安定なる採掘源を確保すべしッ!!」などであろうか。

どうも、もとから私たちは呉智英にミスリードされてきた気味がしないでもない。





その5。

最大の鍵は、主格をあらわす助詞「は」にあるのではないか? 

先ほどの表現を例とするならば、「帝國の繁栄を実現するにすべからく、石油の安定なる採掘源を確保すべし」が「帝國の繁栄を実現するにはすべからく、石油の安定なる採掘源を確保すべし」となり(この時点で「する」と「すべからく」の間が「は」によって断たれている)、「は」によって押し出された「すべからく」が「べし」の修飾語へ「変身」してしまった。

本当は「するにすべからくは」となるべきだったのに、そうならなかった、のではないだろうか。

「願わくは」は、ちゃんと「願わくは」のままで現代まで伝わったが、これも、「私の願わくは」や「彼の願わくは」などとは言わないし、「願わくば」という形が優勢になりつつある。

(そういえば、「思惑」という語は、なぜかシワクとは言わずにオモワクと言う)

(そう書こうと思ったら、「しわく」の変換候補にちゃんと「思惑」と出た…。これもク語法なんだって…)





その6。

「であることとすること」の伝でいえば、古代の日本人は「であること」を言わなかった。言うことはすることだからである。十七条憲法には、明治憲法がそうであるようには天皇の定義や国体の定義は示されない。「であること」が言外のなにかであれば、主格の助詞の出番はない。

「AはBをする。CはDをする。」とあって、AやCの内実に触れないのが古代。「AはBである。だからCをする。」と定めたせいで、Cについて利害が関わるみんながBについて喧々囂々、これが(日本の)復古。





その7。

「政治家はすべからくバカだ」。これははてなキーワード執筆者氏が引用した例である。さて、これは、どんな事情で成立したのだろうか。私は精神分析をかじったせいでか、言い間違えの心理には興味があるのである。

政治家はすべからく・政治家らしくしろ」「しかしそう言ってもそうはならないのが政治家だ」「だから政治家は・バカだ」。これを圧縮して「政治家はすべからく・バカだ」といってしまったのだ、と考えてみるのはどうだろう?




その8。

主格の「は」「ハ」が盛んになるのはいつごろからなのだろう。平安時代の中期、武士が台頭して以来なのではないかと睨んでいるのだが。

彼らは名乗りをあげるのも仕事のうちだったろうし、時代がずっと下って合戦の世になったらなおさらだ。ワレハでは母音がアエアで起伏にとぼしいから、ワレコソハ(アエオオア)などと工夫したりして。




その9。

中世近世の和文にあるすべからくの用例を教えてください。





その10。

帝国議会議事録から。

政府は須く該業を奬勵保護するの價値あるを認む(明治44年03月13日)


而して法規解釋の統一は合理的合法的ならさるへからす以上縷縷陳辯するか如く朝鮮に於ける解釋非合法にして内地大審院の解釋正當なるときは須らく朝鮮總督府法院をして大審院に於ける解釋に合流せしめさるへからす約言すれは斯る行爲は詐欺に非す適法行爲として法の保護を與へさるへからすと思料す(昭和06年03月24日)


小學校教員たるもの須く其の職責の重大なるを自覺し常に徳操の向上と學力の進歩とに努め拮据勵精其の天職を盡さんことを期せさるへからす(昭和06年03月24日)


惟ふに從來の我が國經濟財政は、凡ゆる勝利を前提として編成されたものであるが、茲に最惡悲痛なる敗戰に激突したる今日、之を建直すことは固より尋常一樣ではありませぬ、須く謙虚なる態度を以て敗戰の原因と現實とを正視して、自肅自戒の下に道義的更生日本再建の爲め、拔本塞源の恆久的竝に應急的の施策に精進しなければならぬと存じます(昭和20年11月28日)


大都市に溢れて居る多數の失業者を須く農村に送り、或は其の他の生産増強に振向け、或は平和産業を振興して、之に振向くべきである(昭和20年11月29日)

「政府は須く該業を奬勵保護するの價値ある」は、わりと早い段階の誤用(あるいは半誤用?)のようだ。

「小學校教員たるもの…」の発言で、もうすでに「すべからくとべしとの懸隔の長大化」がおこっている。「須く其の天職を盡さんことを期せさるへからす」でいいのにね。


すべからくの誤用、というよりも、長文に埋もれさせないために、目立つ場所にすべからくを移動したい欲求とでも呼ぶべき感情が人々の間にきざしていったのだろう。





その11。

最近の国会から。

この高等学校の実質無償化制度は、我が国の法律の効力が及ばず、学校教育法上の設置認可に基づかない、海外での教育施設における学習活動についてもすべからく支援するという仕組みにはなっておりません。(平成22年09月08日)


私は、すべからくあらゆる方々に申し上げましたのは、こういう振興策をするからこの問題を受け入れてくれということの前提で物を申したことは一度もありません。これだけははっきり言明をしておきます。(平成22年06月01日)


これは委員も御案内のとおり、業務停止命令の制度については、電波法を含む現行の放送法制においてもすべからく整備されているものでございまして、現行法制と比較して放送事業者が放送の自由を侵害される懸念が生じるものではございません。(平成22年05月18日)


なお、個別判断が必要ではないかということについては、基本的に、法施行当初でございますので、養子という非常に判断の難しいものについてはすべからく厚生労働省に御相談いただいて、先生がおっしゃるような地域間のそごのないようにしていきたいというふうに考えているところでございます。(平成22年05月14日)


米軍が施設・区域外において訓練を実施することが地位協定上認められるかどうかに関しては、個々の訓練の目的、態様などの具体的な実態に即し合理的に判断すべきであり、施設・区域外での訓練がすべからく地位協定上認められないわけではないと考えております。(平成22年05月14日)


制度の話をしているから、こちらの採点も甘くなる。「制度は(略)すべからく支援する」これ、意味を酌めばセーフのような気もするのだ。制度の話だから…。でもまあ誤用だろうな。

「私は、すべからく(略)申し上げました」。たぶん「すべてのあらゆる人々」と言おうとしているのだろう…。あるいは、この「すべからく」は「当然のこととして」という表現におきかえうる。「私は、当然のこととしてあらゆる方々に…」

「業務停止命令の制度については、(略)すべからく整備されている」好意的に解釈すれば、「すべからく整備されるべきだし、整備されている」と読めなくもないのだ。なんでも先回りする現代特有の言語感覚というか…。

「すべからく〜そごのないようにしていきたい」なら、個人的にはセーフだと言ってあげたいが、発言者は「すべからく〜御相談いただいて」のつもりなんだろうな…。

「認められるかどうかに関しては、(略)すべからく(略)認められないわけではない」これはまあ誤用と認定して構わないだろう。


というわけで、現代日本の国会ではほとんど誤用されている様子だという観察が得られた。とはいえ、べき論を述べたら、それは当然のことだといなされてしまうのが現代だから…。




その12。

暫定的な結論を出すと、読み下し方にすぎない「すべからく〜べし」を「すべからく〜せよ・しなければならない」と単純かつ半端に現代語化して適用することには疑問がある。

もともと、はじめから使わなければそれに越したことはない表現にすぎない。「すべからく」は現代語ではない。「すべきこととして〜しなければならない」と、きっちり現代語化しろ!

いまになってハッと思い出したが、「美しいひとの精神はすべからく美しい」の「すべからく」は、単に「しかるべく」のとりちがえだろう。「美しいひとの精神はしかるべく美しい」ほら、何もおかしくない。