壊れた人間/「自我神」

人は自我を持つことで自分を支えるのだが、その結果として周囲と生ずる軋轢に耐えなければならない。人間存在の矛盾というか宿命である。

自我をもつストレスに耐えられない人間が、超自我だけの存在に逃げ込むことがある。公式主義的な人間というのはそういう存在だ。

政治家が鉄面皮にそういうペルソナに逃げ込んでいるようなのはいい。しかし平和がつづくと一般人さえもが公式的な人間のままでいつづけられるような気がしてしまう。

そういう状態にはまった人間はなにもしないで周囲をただ見る。そして論評する。自分のなわばりという概念がないから平然と他人のなわばりに進入する。そして否定的な反応を受けて呆然とする。見ることと呆然とすること以外に行動のしかたを教わっていないからだ。

私には死にたくないという行動原理がたまたまそなわっていたが、いやになったら平然と自殺できるという人格をそなえた人間も当然、いる。そういう人間をひさしぶりに見てしまった。映像を介してだが。

そんなに論評してないで周囲とまざりなよ。見ているこちらはそう思うのだが、かれはかたくなに自己を守る。超自我は守られなければならないのだ。それが必死の論評行為につながる。論評されたほうは、なぜかれがこちらを論評してくるのかの理由がわからない。生意気なのは「いじめがい」があるが、こういう手合いはどう関わればいいのか、それがわからない。

超自我からもエスからも、あるていどの距離をおいて現実をながめる私のような人間には、まるで恐怖そのものなのだが、かれは平然と自殺できる。自我が壊れているからだ。超自我に従うことを是とするかれは平然と自殺してしまう。自我神の命令にしたがったのである。