要するにハッタリ

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20101108
私が福田和也を読んでいたのは筒井康隆が褒めていたからで、筒井にたいする催眠術から醒めたと同時に読まなくなっていった。『罰当たりパラダイス』とかを無理に面白がろうとしていた。

そういえば私が学生のころいきなり初春樹として『ねじまき鳥クロニクル』を読んだのも、福田和也が褒めていたからではなかったか。1980年代の雰囲気をろくに知らずに、春樹を読んだってしょうがないんだ。『ライ麦畑でつかまえて』を読まなきゃ、『さようなら、ギャングたち』の終幕の意味などわかるわけないのとおんなじで、そういう疎漏さを抱えた俺って本当に怠惰で不勉強な学生だった。

「謎」をばらまいて引きつけるって、『ツイン・ピークス』もあったし、『エヴァンゲリオン』もあったし、あの時代、1990年代の雰囲気に福田和也もあわせていたってだけなのではないですか。

言葉をあたえる、言葉を知らない人間に言葉をあたえる、というのは、考えたら相当に愉快なことで、私の世代にはもののみごとに、福田和也小林よしのりを本気にしてしまった人間がちらほらいて、私だって危なかったし、要するにこういうのもオカルトの一種として眺めた方がよいのだろうな、今はそう淡々と思うばかり。

いたずらとしての文化活動というのも、そりゃあるだろうなと思うのである。ダン・ブラウンは、日本では押井守がやっていることに似たようなことを『ダ・ヴィンチ・コード』でやっていたらしく、他人事ながら(他人事だからなのだが)愉快である。「盗作」されたノンフィクション作家らは、可哀想なことであった。