映画と音楽

なにしろ映画以前にオペラというものが西洋にはあって、それには序曲というものが奏されていた。開始時間ぴったりにはじまると、遅れてくる客が物語からおちこぼれてしまうのでこういう措置が必要だったのだろう。

2001年宇宙の旅』は、ソフトによっては公開時の序曲がのこっているバージョンがあって、退屈である。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、この伝統にのっとって映画の冒頭に序曲シーンをつけた。ほとんど冗談すれすれの懐古趣味である。

物語に酔っている時に音楽は余計である。『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』の音楽も、くどくて、わずらわしかった。監督が画面に自信をもてないときに音楽に頼るのだろうなくらいに私は思っている。

マカロニ・ウェスタンなど、私はそんなに数をこなしていないが、あれには音楽が必須なのだろうと思う。音楽込みでなりたつ世界なのだ。過剰さを形式として安定させたときに、芸術はあるいは芸能になるのかもしれない。マカロニ映画自体はそうそうに廃れてしまったけれども、その音楽はいまだに愛聴されている。音楽を聴くだけで、あの世界が聴き手の脳裏によみがえるのだ。

テレビとビデオ、そして動画サイトのせいで、現在の私たちの認識には混乱が生じているけれども、そもそも芸能は音楽や芝居であって、撮影や編集の存在、メディアが壊れるまで何度でもくりかえし再生が可能、などの技術的な事象の存在によって、映画は芸能の本流ではない。まさにその編集できるという点が、映画を芸能のメインストリームから遠ざけ続けている。

アイドルに声援をおくるオタクたちの様子をながめると、芸能の逆転現象を感じずにはいられない。凄くないものを凄い凄いと囃していれば、いつか本当に凄いものになるのではないかという、神に懇願するかのような情熱を感じずにはいられない。

実は芸能人とは、本当にすごいものなのだ、ということを想起しなおさなければいけない。彼らは私たちの心を動かし、私たちのものの考え方を決めるのだから。