『ドリーム・ハウス』の落ちはついたかつかないか

高校の頃読んだ時には、これ、落ちがついていない、中断しているじゃん、と思ったのである、が。

が、である。

読み終わって、ずっと考えているうちに、ああ、これはこれでいいのだな、と思えるようになってきたのである。

小説の主人公の被害者意識や締念のようなものが、この小説の「ぬし」として作品の中央にどんと居座っていて、主人公すらその感覚にふりまわされる。主人公すら「主人」ではない、これは、そういう小説なのだ。にせものは「にせDD」ばかりではなかった。主人公すら観念の奴隷にすぎなくて、だから「ぼく」は古風な死を最後に夢見るのである。生きるための苦闘が、死ぬための理由の発見に「主人公」をいざなう。私は、だから、「幻想小説」だと思ったわけである。

近代人として、運命について言及することなど許されない。勝手なそういう思い込みが、小説作者を縛り、小説読者をまた縛る。小説を構想中の作者は作中人物たちの意見に「ふりまわされて」悶絶したようだが、それはわかる。

運命などというものを本気で信じてはいけないことになっている、この現代に小説を書くということ。

ふとギリシャ時代の演劇のことなどをおもったりもする。あれはまさに都会のものだった。都会のさまざまの義務を担う層をきちんとプロットする、認識する、定着する。そうすることで、自分たちの立場にたいする疑問を払拭し、身分意識を賦活するためのあれは儀式だった。神は神、人は人。男は男、女は女。

昭和後期の東京は、著者にとっては、その古層をみずから破壊解体し、得体のしれない存在へと変化していく領域だった。じつは、そういう世界を舞台にしては、小説はそもそも書けないのではないか? 『ドリーム・ハウス』に引き続いて『イーストサイド・ワルツ』を読んでいるが、両者の主人公が、青春時代につらい失恋を体験していることが、つまり、主人公にそういう経歴が必要であると、作者が判断していることが、痛ましいのである。