夫婦別姓の主観と客観

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さすがにこれは小谷野さんでなくてもちょっとビックリするのである。戦前とか戦後の生まれではなくて、現天皇が皇太子のときの結婚パレードのときに生まれてなかった人がこういうことをいうのだから、やっぱり1980年代なんてたんなるマボロシだったんだなあと思うばかり。しかし、この感想はこれだけでは終わらない。

一般的には、夫婦別姓というのは何か先進的で肯定的なものと思われているけれど、実はそうでもないんだよというのが、小谷野さんや宮崎哲弥の論点なのだが、佐藤亜紀の本音(小谷野さんが言及してから明らかに取り乱したので、これはフリとかではないだろう)からは、その前段が消えてしまっている。家思想、封建思想からの離脱として考えられたはずの夫婦別姓思想が、「より柔軟な家思想の表現の形」であることにされてしまっているのだ。夫婦同姓こそが核家族だなんて、一般の人は思いもしないから、まるで佐藤が乱心したかのように思えるのである。

あるいは私に知識の足りないことがあって、たとえば戦前から家名を守るための夫婦別姓推進運動などがあったりもしたのだろうか? そういうことはなかったと思うのだが。

ただこの件に関しては、私は小谷野さんの説明にも納得していなくて、だから戸籍制度がおかしいのだ、これを廃せ、と言われても、なんだかはぐらかされた気がするのである。

要するに、私などはごく単純に、自分(妻)の家名を残したいなら養子縁組にすればいい、夫を婿入りさせればいいと思うのだけれど、ここではじめて佐藤が戦後以後の生まれであるアドバンテージが効いてきて(へんな日本語だ)、つまり、それも夫の側の人権をジューリンすることになるから、それもしない、残った選択肢は夫婦別姓だ、ということになるわけだ。たぶん、小谷野さんは小谷野さんでここらへんの女の心模様を見過ごしている。佐藤が怒ったことにも意味はあるのだ。

しかし普通に考えたら、夫婦別姓の夫婦こそが「核家族」で「流民」だと思うものだが(しかしこれ差別表現だよな。使わないほうがいいと思うよ)、それはつまり外側から見た場合なのだ。結婚している当事者たちが、自分たちは結婚している自覚があって、さらに結婚以前の姓を維持することによって、自分と先祖の縁も感じ続けられて、そしてそれが望ましいことである場合、夫婦別姓のほうがよりリーズナブルな制度(とりきめ、とか、約束事)であることになる。

つまり主観と客観がくいあわせを来すということが、この場合にも起るのである。わたしは何者かであると当人が考えることと、他人が当人を評価する場合の基準が、ほぼ必ず異なることを知った時のあの感じ。

ようするに、ここでもまた、考えるべき事柄が見過ごされて、どうでもいい枝葉末節について泥仕合を続けるあの日本的風景を私は見るのである。

共同生活をしている、そしてその結果あたらしいヒト個体が出現する、その場合の、共同生活をどう外部に表現していくか、そして、あたらしい個体の社会的ドメインをどう表現するか(ようするに固定する、アイデンティファイさせるか)これらのことを、議論しあわなくてはならないのに、これらはみな放っておかれてしまっているのだ。

あと、最近はどうかしらないが、宮崎は小林よしのりと「人は死んだらモノか否か」論争をしたことがあるし、小谷野さんも『母子寮前』で死んだ人をどう思うかを描いたばかりである。私はどちらかというと「人は生きている時からモノである」派だから、宮崎や小谷野さんの言い分が子供っぽくおもえてしかたないが、それはまたべつの時にする話である。