『結婚恐怖』

1996年に30すぎで放送作家への道がひらけはじめた男と、その周辺の男女が描かれている。作者より30歳年下の世代の描写は、かれらの考え方なり会話なりに、さすがに首を傾げるところがあるが、しかし業界周辺にただよう「なんだかぎこちない人」を観察する眼力(がんりき)はさすがである。これより数年前に書かれた『ドリーム・ハウス』にも用いられた素材である。

作者の社会批評がぞんぶんにもりこまれた前半は、こちらのほうはわりと普通に読めるのだが、社会批評と平行して作者が描く「後期青年」としての主人公たちの描写が珍妙で、小説全体を真面目に読むべきか否か迷うところなのだが、後半はとつぜん趣向が変わって、まるでテレビドラマかバラエティ番組のような、サイコホラーの不出来なパロディになってしまう。

実家の母親が息子である主人公の結婚を自分の思いどおりにしてしまおうと画策する前半のような展開からは、では家なんて制度をやめてしまうか無視してしまおうという結論にしかならないのだが、さすがに旧世代にぞくする作者は、その考え方は諾(うべな)えなかったのだろう。小説の後半からは、母親がいきなり善玉(房事中のジェイムズを衛星から監視するMのような)に変わってしまうのである。落としどころというものがあるのである。

しかし、かえってこれくらいにご都合主義を展開してくれたほうが面白いというものである。念を押すように、小説はつくりものなのだという議論を、登場人物が「なぜか」作者が体験した例を引いて行う。『イーストサイド・ワルツ』を読んだばかりの私はにやにやするところである。

いま現在かつて小林信彦が住んでいた左門町のとなり町に住んで、数年前までゆりかもめで平然と通勤していた私がこの小説を読む楽しさということを思う。私は、小林信彦が使う「ずばり」と「そこまでいうのか」に違和感があったのだが、最近はだんだん「おじいさんのいいまわし」に慣れてきているのである。テレビがなんでもかんでも面白かしく強調する時代が、私と「おじいさん」の間に横たわっていて、これが隅田川よりも深かったりするのである。

「ずばり」は「ズバリ」であり「ズバリ!!」と強調されていった。「おじいさん」の何でもないひとことがいちいち気になってつっかかる愚かな「孫」がいただけであった。「おじいちゃん、テレビの言葉をつかうなんて、かっこわるい」。バカなガキ、テレビが先なのは、お前の頭の中だけだと言うの(「だけだっつーの」は、くだけた口語なのである)。