ごく単純な利得を要求すること

第一、もし三、四人子供を産むのであれば、家名を残したい女は、うち一人を親の養子にすればいいだけのことだ
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110106

そうすると養子になった子供は、同じ家庭に育てられているのに自分だけ苗字が違うことになるのだから、アイデンティティが不安定になって混乱するのではないですか。子供が混乱することが望ましいことではないとして夫婦別姓に反対していたはずの小谷野さんがこういうことをいうのは矛盾しているように思いますが。

どうも、ずっと眺めていて思ったのですが、そもそも「夫婦別姓論者の中核にいるのが、家名存続を願う一人娘とその親たちであることは既に明らか」という小谷野さんの判断が間違っているような気がするのです。うがったようなことを言って、事実を自分の思い込みによって解釈しなおしているだけなのではないか。だから結論が矛盾するのにすぎないのを、いや、対象が幻想にとらわれているのだと決めつける。

ごくごく単純に考えたら、子供を持つことを前提にしたうえで夫婦別姓に疑問をもたない夫婦というのは、自分が生んだ子供が自分のアイデンティティを引き継ぐのは当然と考える女と、女がそう判断するのは当然だと考える男の組み合わせしかない、あるいはそれが大多数なのだ。だって女が産むのだもの、その現実をすなおに解釈すればそういう結論にしかいたらない。

民法を眺めていると、「親族」という項目はあっても「姻族」「血族」という項目はない。後二者よりも、親族の方がより抽象性が高いから法律できめておく必要があったわけだ。抽象性が高いものはだいたいは嘘なのだと私は思うのだが、しかしそういう民法の中にある、たとえば、女だけ離婚後半年結婚を禁じる規定などは、あはは、やけに具体的だ。100日に縮める案も出たことがあるらしいが、なんでゼロ日じゃないのだろう。父親が誰であれわたしが生んだ子はわたしの子だという考え方は、法の場では抑圧される。ようするに私たちは民主主義の世の中に住んでいるのではなく、大幅に民主主義に譲歩した封建主義の世界に住んでいるのである。

もちろん、人間は動物ではないのだと(だれかが)考えているからだ。たいていの文化は、自分たちは人間で、人間は動物とは違うのだと決めつけることで、自分たちを肯定する。他人を傷つける自分たちを肯定する(そのばあいの「他人」はたいてい動物になぞらえられる。カモだとか羊だとか。あるいはその他人から利得を抽出できない場合はゴキブリなどに)。そして様式化されれば、たとえば原爆投下なども、分厚いマニュアルを精読する果てに行われたことなのだから、肯定するに値する。これがアメリカ人の論理だ(キリスト教徒ではないフロイトは戦争についていけなかった)。そういえば、だからかどうか知らないが、小谷野さんは原爆の日本文化における「特権化」にも反対しているのであった。戦争は文化にすぎないから。