家(公)と私 (夫婦別姓の話)

最近表札を出さない人が増えたでしょう。近所の人だって、そういう人にたいして、もう、特に不快に思ったり不気味に感じたりなんか、しない(いや、けっこういるかな、おれもちょっと「えっ?」と思うほう)。個人情報は公開しないぜということなのかな。

戦後民法で、国は国民に対して夫の姓ばかりではなく妻の姓に統一する権利も認めた。だから、姓に関する自由化要求って、この時点で完結しているともいえる。

ようするにみんな夫婦別姓夫婦別姓って言っているけど、実のところは夫婦ではなくて「家」の話をしたいんだ。自分たちが、本当はなんの話をしたいのか、わかっていないのだ。わかってしまったら、自分たちがいま現在かかえている自由を手放さなくてはならないから。

だって、ひとつの家に二つの家名が並存するのって、おかしいじゃないか。「国」は国民の無茶な要求にたいして、素朴にそう思っている。

同棲生活と結婚生活は違うのだというのは、なにも戦前の話じゃない。今だってそうだし、披露宴など付随するもろもろのイベントの有無や質が、その「生活」の格を決める。結婚したばかりの海老蔵さんは、「結婚したって俺は俺だ」と思って六本木へくりだしたんだろうな。

有島家の子供たちがいろんな姓をもっていたのって、ようするに「彼らの将来が決まっていた」ということなんですが、小谷野さんはそれを分かって言っているのかしら。ほーけんしゅぎにはんたいしよーえいえいおー。