「まったくの他人」

小谷野さんが江藤淳の文章を息苦しいと評していたのを読んで、ふと思ったのだが、東京だの下町の一族だのにこだわった小林信彦の文章を嫌う人も、また同じように「息苦しい」と思っているのではないかということ。

私は江藤の著作も小林のも、自分と世代も階層もまったく違えた、まさしく「他人」の自己分析として読んでいるわけだから、楽しんで読めるのである。息苦しくなんかならない。

私は高校も大学も自分の行けるレベルのところを選んですんなり入ったから、受験勉強で苦労したこともない。勉強が楽しいと思えるようになったのは20代なかばからである。これはほとんど、親離れとは具体的にどうなることを意味するのか明瞭に理解することに等しい体験だった。

小谷野さんには、自分にとってまったく楽しいと思えなかったらしい学部生時代のことを書いてほしい。退屈で売れないものになったとしてもそれこそが純文学である。私としては、家庭教師や塾講師というアルバイトが、自分にはまったくできない、そしてボロい商売であったのを、指をくわえてみているしかなかった思い出があるから(短期間代々木ゼミナールで事務員のバイトをしていた)、ちゃんとした小説の形で読んでみたいのである。