「自己」は「内部告発」の「内部」に相当するか?

そして、これは「菊池涼子シリーズ」つまり『美人作家は二度死ぬ』『中島敦殺人事件』のパクリだ、という妄想が始まる。(http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110121)

「妄想へつながる」のほうが修辞としてはふさわしいような気がする。

それにしても、佐藤亜紀のほうは小谷野説の見立てに異論はないが、片岡直子のほうは私はいまだに小谷野説に諾えない。片岡直子はすくなくとも、小池昌代岬多可子がおなじ詩作サークル?(かつて作った「インスピレーションの範囲」のコピーがみつからないので記憶に頼るが)に所属していたという事実を、読者に知らせている。

関係妄想とそうではない内部告発との境界について専門家がどう判断しているのかは知らないが、私は、佐藤説と片岡説では言説の構造が違うと思うのである。あるいは、片岡直子のいうことも関係妄想と看做していいのかもしれないが、それならば、たいていの批判が関係妄想になってしまうだろうと思う。片岡の主張は、小池の表現が岬のそれと類似したことが偶然であったならば、小池の、サークル同人への無関心を証明することになるからである。端的に、佐藤亜紀平野啓一郎への非難には、こういう「二段構え」の構造がないのである。無視されたことをもって、自分の言説の正しさの証明にかえようとする(懸賞商品の発送をもって当選通知にかえるような)「虫のよさ」があるのである。