自己批評と自己露出

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110227
たしかに「自己批評があるかないか」というのは、表現を語る際の符丁というか約束事みたいになってしまっていて、かったるいというかうざったいというか、ものの本質がわかりもしない馬×がそれでもなにか話したいときにもちだす格好の話題ではあると思う。

だいたい私小説(わたくししょうせつと言え、って友人から注意されたが、シショーセツで、いいじゃない。シショークツみたいで)を書いている時点で、自分の経験をあれこれこねくりまわしているのだから、それは立派な自己批評である。

なんでこんなに「自己批評の有無」をみんな語りたがるのだろうと、しばし考えたが、あはは、みんな「自己表現の露出性」から目を背けたいんだ、きっと。表現をしている時点で、誰も彼もが「世間並みの表現に満足できない貪欲な者」であることから逃れられないのに、たとえばエンタメ小説は自己露出ではなくて、なにかもっと高級な昇華されたものであって、お金を払うに値するとか、そういうことにしておきたいんだろう。

しかしあんなに経済を語って、自己露出はダメだみたいなことを言っていた村上龍だけれど、『歌うクジラ』が『1Q84』を抜けなかったら、洒落にならんよね。大江と石原が五十代あたりで小説家として勝ち負けが決まったとの同じようなことか。