顕示と違背、あるいは、一般人は絵を描かなくなる

著作権のことで長谷川町子のことを話していて、ちょっと思い浮かんだことがあって、それはなんであんなにサザエさんはいまだに見られているのに(アニメで)、みんなイラストを描かなくなってしまったのだろうかということ。

もちろん長谷川の財団の威光が、下々にまで達している、ということではない。ポケモンとかプリキュアとか、よく知らないが、いまの子供たちがより好きなキャラクターを描くのに忙しくて、サザエさんまで手が回らないわけだ。

長谷川が著作権に敏感で、かなり早い段階で自分の絵を無断で模写して車体を装飾していたバス会社を訴えた話は有名である。

今後はデジタル技術がどんどん発達していき、より気軽にコンピューターの画面上に絵を描くことができるようになるだろう。家の壁やふすまに落書きする子供というのも、過去の事象と化してしまうかもしれない。あるいは画像収集の技術が簡易化していき、多くの人は絵を描かなくなるかもしれない。

誰だったか、押井守だったような気がするけど記憶に自信がないのだが、アニメの絵も、原作者の漫画家が描いているのだと一般人は思っていて、アニメーターの存在は認知されていないということをぼやいていたのを読んだことがある。たしかにそういうものなのかもしれない。

老人たちが戦争の体験を絵に描いていて、それがまとまって展覧会になって、その様子をたまにニュース映像で見かける。下手なりに絵心があって、見ていていい気分になる、といったら不謹慎か、ようするに胸をつかれるわけだ。これからは、こういうものが見られなくなるのかなとおもうと、うっすらとした不安がきざす。

高校の現文の授業で、日野啓三の「私にとって都市も自然だ」をテキストにしたことがあったが、まさにその文化版が起ろうとしているのだろう。戦後、一般家庭に写真術が浸透していったのと同時に絵心が失われていったように、今後はデジタル技術の充実が絵心の喪失に拍車をかけていく。

要するに、絵というものは技術に習熟した専門家が描くものであって自分が描くものではない、と多くの人が思っていくのではなかろうか。べつに長谷川を悪くいうつもりはないのだが、ものまねということには、もっと鷹揚であってもよかったのではないかと思うのだ。この点に関しては、遺憾なことだが、私は中国人のほうにシンパシーを感じてしまうのだ。内容までは盗めねーだろうよ。後期の長谷川のマンガのあの猛烈な皮肉と悪意(あれこそ日本人独特のものだと思う)までをも中国人は翻訳するだろうかと、ちょっと可笑しく思う。

私にとっては、中国人が日本人の著作物をパクることなんかより、日本人が「他人の権利」を侵すことを恐れるあまりに、萎縮してその創造性をみずから摘んでしまうことのほうがよほど恐ろしいのだが…。見ることによって、見た対象から自らを背ける。そういう退廃的なことがこの国ではどんどん進行していると感じるのだが…。