佐藤亜紀『鏡の影』

近所のブックオフにはビレッジセンター出版局の版があってこれを入手。帯が際物じみている。この帯は書店の客を困惑させるのに十分だろう。見えない力って、なんだそれは。

「絶版」というのはよく分からないことで、つくりすぎたキャベツや公開時期をすぎた映画のフィルムみたいに、ジャンクにしてしまうのだろうか。「品切れ」なら在庫を処分するだけなのだろうが、絶版はどう違うのだろう。もう活字を組んだ版なんかではないだろうから、そうはかさばらないだろうと思うのだが、違うのだろうか。

巻末あとがきを読んで、著者が出版社とのいきちがいをこじらした様子はよくわかる。これは同情するべき著者の災難だったろうと思う。「歴史エロコラム集」という語彙が、いい。だから私小説書けばいいのに、である。

「気の毒だから」絶版を報告しなかった、というのも、よくわからない。そういう慣例があったのだろうか。出版社の担当者が著者に連絡をすることに、心理的な障害があったのではないかと思うのだ。そういうことは、よくあることだろう。フロイト流に皮肉な見方をすれば、担当者は自己の境遇を表現する言葉を、対象である著者に冠したのではないだろうか。「気の毒」なのは、じつは著者とコンタクトしなければいけない自分(担当者)だったのである。

巻末解説で、小谷真理は小谷野さんの望むようなことをたしかに書いてはいないが、副題といい、引用文といい、目配せはしている。

平野啓一郎が『葬送』を出さなかったら、佐藤亜紀に目を付けられなかったのかもしれない、と思う。「メッテルニヒの仕事」という小説が、タイトルを変えて出版されたのかどうかをこちらはつまびらかにしないが、巻末あとがきの年表は「『鏡の影』復刊の経緯」というよりは「「メッテルニヒの仕事」消息」と題したほうがいいようなものである。

小谷野さんのこういうところの行間の読まなさというか、つれなさというのは、もうちょっと優しくなればいいのに、と思うのである。私の診断は、これは、フロイト的ないきちがいの諍いでしかないというもの。問題は『日蝕』ではなく『葬送』にあったのだろう。「メッテルニヒの仕事」が却下されて、『葬送』が出版されるためには、なにか理由が存在しなければならないのだった。