悲哀感情、壊れた人間を分析するための理論

私は村上龍の『歌うクジラ』は、宮崎純さんの感想を読んで、じゃあ読まなくていいやと思った口だが、小谷野さんが内田樹の講演記事に触れたブログ記事を読んで、ふと思ったことがあった。

私もかつて内田の本を何冊か読んで、いろいろ疑問が浮かんだのである。

なにも内田に限らずに、とくに男の書き手に、この人には悲哀感情が欠落しているのではないかと思ってしまうような存在がいる。悲哀感情という用語を、私が思いついてから、私は内田に対する疑問が解消したように思った。

注意すべきなのは、その人の悲哀感情が欠落しているのか、あるいはかれがそれをおしころしているのか、外側からは容易に判断がつかないのである。

あるいは内田は悲哀感情をおしころすタイプなのかな、と小谷野さんの文章を読んで思った次第。

日本の作家で悲哀感情をうまく表現する作家の例を、こちらの不勉強のせいで、挙げることができないのだが、アメリカではカート・ヴォネガットフィリップ・K・ディックが双璧という感じである。筒井康隆も『エディプスの恋人』など、悪くない。アメリカはいまやキリスト教の「本場」だし、筒井も同志社大学の出身である。