『YOYOCHU』

私は代々木忠を、日本有数の精神分析家だと思っている。いわゆる実践派であろうか。

私は20代のころは、江川達也やらウィルヘルム・ライヒやらを信じていたので、自然と代々木のアダルトビデオ作品も見るようになった。とはいえこれまでに見た代々木の作品など、せいぜい40本ほどである。このドキュメンタリー映画によれば、監督作は500本を超えるらしい。

アダルトビデオそのものには、私はさしたる興味はなくて、それでも若かったから一月に10本いかないくらいは借りていたと思うのである。そのころ地元駅周辺のレンタルショップが2軒あって、片方を普通の映画作品借出し用、もう片方をアダルトビデオ借出し用にわけてみたりもしていたのである。30を過ぎてからは、ほんとうに借出し本数は激減してしまった。

とはいえ、私も今は代々木のアダルトビデオ作品にたいして距離を置く気になっていて、要するにあれらは代々木のなかにある解放の物語を毎度くりかえしているだけにすぎないのだなあと、ある時点で思ってしまったのである。

おおまかな代々木伝は、この映画を見る前からいろいろなメディアによって知らされていたので、とくに驚くといったことはなかった。とはいえ、あれやこれやの事件について、代々木自身の感想をその口から聞けたのは興味深かった。

やくざの世界で(結果的に)裏切られ、日活からも裏切られした代々木は、アダルトビデオの世界で、女(や男)が真実の姿を露出することにたいする感動を体験したわけだ。その過程で莫大な富を得たことも、代々木の確信を後押ししたことだろう。バブル期に代々木は東南アジアかどこかの文化に入れ込み、それを世界に発信するためのセンター建設に巨額の費用を投入し、そこで日本経済はバブル崩壊を迎え、代々木には借金だけが残った。渥美清いかりや長介がアフリカ文化に傾倒したことを連想しもする。

その全盛期からすでに主流のものではなかった代々木忠のアダルトビデオだが、いまの主流のものとしてのアダルトビデオ業界が、代々木が着目するようなアダルトビデオ女優の来歴やら、日常生活での抑圧などに(ようするに文学っぽさのことだ)目を向けなくなってしまったことを報告するくだりは面白い。SODの菅原千恵が資本主義の公式見解をとくとくと披露するあたりは、皮肉な意味で、とてもよかった。

私の口癖で「地と図はしばしば反転する」というのがあるのだが、ここでもそういうことが起っているのである。数値化できないエクスタシーや抑圧からの解放に金を払っていたそれまでの消費者は退場し、見えることを当然の前提とし更なる視界をメーカーに要求する限度を知らない馬鹿の群れがとってかわったのである。

この映画はアダルトビデオ史と代々木の経歴と代々木の性思想をいっぺんにつめこんでいるので、作品全体がちょっと雑然としてしまっているのが残念だったが、代々木の性思想とその挫折の話題は、もういっぺん仕切り直して長編ドキュメンタリーにしたほうがいいと思うのだ。代々木の著作でいうと、『マルチエイジ・レボリューション』のあたりである。

ふと思うのだが、中小企業の社長など、裕福だがそれほど社会的に知られていない存在は、「探偵小説の探偵」にうってつけの存在なのだなあと、これはちょっと代々木とは直接関係のないことを思った。小説家は、こういう存在を作品のキャラクターとして利用すればいいのにと思った(村上龍の『オーディション』などはこれに近い)。『多重人格 そして性』の全部をなんとか見てみたいと思った私だが、「裕福な探偵」だった代々木忠は、性と心の深淵にはまり込み、自身がうつの幽冥にさまよいこむことになるのだった。