東京で使う電力は東京でまかなうべきか

(政治)権力と平等は両立しないことが、今度の原発事故で鮮明になった感じ。分業とか集約というものも、結局はイデオロギーでしかなかった。原発は絶対に安全だということを、原発推進側はいやでも言わなければいけなかったのである。相対的にどうこうということは、イデオロギーではないからである。

補助金がいろいろ出ていたいままでの生活の安楽さと、これから故郷が廃棄されることとが、双葉町大熊町の人たちの心のなかでちゃんとつり合っているだろうか。そんなわけはないと思うのだが。

集約する、ひとつのことでとりあえずは我慢して、豊かになったらいろいろと選択肢を増やす、というのは、資本主義の論理なのでもあった。資本主義に一期一会はない。

しかし個人にとっての商品は、しばしば愛着の対象である。私は個人持ちのオーディオヴィジュアル製品には本当に高性能へのこだわりがなくて、ふたのアームが片方折れているソニーのWM-GX200をだましだましずっと大事に使っている。このサイズの「ラジカセ」はもう作られていないからだ。これが壊れたら、もうラジオのついていない「テレコ」を買うしかない。一期一会とは、たとえばこういうこと。

私は、ここ3年くらいの冷暖房費がゼロ円という人間だから(これこそ独り身の気楽さというやつだろう)、いろいろ言う権利があるような気が勝手にしているのだが、自分が涼んだり暖まったりするために、例えば福島の人たちがリスクを負わなければならないというのは、なんだか変だと思うのである。

オプションを選択することまで、自由の領域に含めなくたっていいと思うのである。いきなり人間を人間として扱うのではなくて、都会人と地方人の区別ぐらいしてから、ものごとを考えろよ、おまえら、と思うのである。情報化がここまで進展して、はじめて「都会が都会である条件」をクリアに考える土壌ができてきたと思うのである。