テレビの時代の演芸

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小谷野さんとのやりとりがあったこの人のつぶやきはちょっと興味ぶかい。テレビ時代の地方の演芸ということについて、考えてしまう。

私が小学生の頃、地元の地域センターに笑点メンバーを含む芸人たちが来たことがあって、もちろん自治体が呼んだのだが、彼らが、本気の落語をやらないということのニュアンスはわかるつもりである。

とはいえ、芸人たちに怒る気持ちというのは、すくなくとも私はそんなにわかないのである。学校の催しとして教師に引率されて行ったのか、市の主催する興行として割安だったから家族で行ったのか、記憶が定かではないが、ようするにテレビで見ていた人たちを生で見ましょうという、そういうことに力点が置かれていたイベントであったことは子供心にあきらかなようであった。

そういう場で、芸人たちが客を舐めるようなことがあったとしたって、それはその横柄な態度があからさまであったら困るが、それはそれで仕方がないというべきではないだろうか。小学生だった私の目の前で、歌丸師匠が、なんだか皮肉のようなこと、こういう場で、自分が芸を披露することについての自嘲のようなことを言うのを、幼い私は同情のような、不快なような、なんともいえない感情で見守っていた。

地方は地方で寄席を興して落語家を育てればいいと思うのだ。落語家の喋りなど、常連たちが溜まっている空間のなかで、ああでもないこうでもないと研鑽されていくのではなかろうか。上方落語というのはすでにひとつの制度として確固としているが、福島の原発落語など、私は聞いてみたいと思うのである。

日本映画が虚構のテレビ番組を出すと、どうもチンチクリンなものになってしまうということがあって、例えば『コミック雑誌なんかいらない』とか、もっと最近だと『着信アリ』(これも古いか…)とかで、それを見ることができるが、要するに、日本映画のひとつの作品よりも、テレビ番組の方がより潤沢に予算がかかっているためにそういうことがおこるわけだ。

地方の落語会がなんだかチンチクリンなものになってしまうのも、「テレビで見ていたあの人たちがこの会場に来ますよ!」ということでやっているからだろう。私は、テレ東の「なんでも鑑定団」の地方ロケが、皮肉な意味でとても好きなのだ。そこらへんのドキュメンタリーなんかより、すごく「日本」を表現していると思う。

いままでテレビを無料にしていたせいで、文化というものは、不思議な歪み方をしてきたものだと思う。