落語という文化と、寄席という文化

溝口敦のパチンコに関する本で、溝口の取材対象の誰だかが、パチンコは映画と同じに2時間で2,000円ほどを消費しかつ娯楽できてそして暇をつぶせる文化であればいい、という趣旨のことを述べていて、普通の人はそう考えるのかと思って私は仰天したことがある。

私にとっての映画は、宗教とか、精神分析のセッションとか、そういうものに近いので、正直いって、映画の値段を気にしたことはない。

とはいえ、私は信者でもなく、医師の分析を希求するほどの患者でもないので、映画がタダならタダでもいいし、それはそれでありがたいと思うわけである。私にとっての映画は、宗教そのものではないし、精神分析そのものでもない。神父や牧師や和尚の話を聞くだけ聞いて、感動して生きる糧にもして、それなのに寄進もしなければ奉仕活動もしない「信者」がいたならば、顔に出さないまでも、指導者はいやがるだろうなあ、と私の顔に黒い笑みが浮かぶのである。

ところで、寄席の入場料は2,500円から3,000円の間くらいだったはずである。先述の対象者氏の理屈にしたがえば、4時間ぐらい居れば元は取れる寸法である。けれども、それぐらいの時間、ひとつの場所にいることになれば、なにか飲みたくもなるだろうし、食べたくもなるだろう。そういう軽食を、もちろん寄席は用意しているわけ。

ラジオやレコードの存在によって、落語は早くから、寄席という文化から切り離されはじめたということだろう。小林信彦は戦前の頃から、実演もレコードも放送も享受していたようだ。私は、中学生のときには落語部というところに所属していたのだが、落語の楽しさや面白さに惹かれた、というよりも、ある程度の長い話を自分が暗記できて、そのことを他人に披露することが自慢になるし面白いから在籍していた、というのが実際のところである。

家庭で映画を見るというのは、もはやひとつの文化になったという感じである。地上波からはシリアスな映画の放映が途絶えがちになってしまったけれども、映画が好きな人は有料放送に加入するだろうし(ひとつの局とだけ契約するのなら、年に2万円もしないはずである)、自分から特定の作品を選んで視聴するのではなく、そのとき放送されているものをじっと眺めるというスタイルは、多くの人に定着したという感触がある。たいていの人が大容量のHDDがついたレコーダーを買ってきて、たいして使いこなさずに腐らせるのだろう。

私は桂歌丸師匠の『真景累ヶ淵』CD5枚をipodnanoに入れて、震災最初の一週間の家と勤務先との往復で、ずっと聴いていて、ずいぶん癒される思いをしたものである。人殺しの因縁話を聴いて癒されるというのも不謹慎かつ不穏当な話だが、本当のことだから仕方がない。

寄席というものが、そもそも日常にたいする異次元空間で、疲れた人が半日そこに滞留することで、癒されたり陽気になったりするためにあった。スペクタクルを求める人は歌舞伎に、スリルを求める人は賭場に、それぞれ行ったのではなかろうか。映画館も、はるかな昔は、一本立ては一部の高級館の興行スタイルで、ふつうは二本立て三本だてだったのだ。いまだと、入れ替え制のシネコンがほとんどなので、作品至上主義は極まったとも言えるだろう。場所というものは何なのだろう。