遍在感の訪れ

 ユーチューブの地震発生映像、とくに一般人がとっさに携帯電話の動画撮影機能で収録したものを、5時間くらいかけてじっくりと眺めた、新宿、渋谷、品川といったターミナル駅や空港はいうに及ばず、国領や鷺宮といったマイナーな場所でも動画は撮られていて(ストリートビューで確認した)、しばしの間遍在感に訪れられて、ボーッとしてしまった。

 私がネットで受けた衝撃の最大のものは、以前だと2006年のグーグルアースだったのだが、今年の地震動画体験はそれを超えるものになりそうだ。テレパシーというのはいまだに小説上の事象にとどまっているが、特定の事件に関する各人の主観が、二週間のタイムラグをおいて、私の主観に結実したのだ。技術的には、この「二週間」をどんどん縮めていけばいいだけの話である。テレパシーが実現したのと、ほぼ同等の社会が実現するだろう。

 私の小説では、登場人物の誰もがまだ電話で会話を交わしていないのだが、小説に限らず、映画でもそうなのだが、電話をしている人物をどう表現するのかというのは難しいものだ。安直な書き手だと、対面での会話と同じように処理してしまう。たとえば映画だと、切り返しや画面分割にするわけだ。でも電話というのは、実は現実的には、かなり異様なものであるはずである。携帯電話にヘッドセットを接続して、手ぶらで歩きながら会話する人が増えはじめたが、あの姿に感じる異様さを、百年前の人々は、電話そのものに感じていたのではないか。