理性にはかならず盲点があり、恐怖には焦点がない

分裂病の精神病理2』(東大出版会)をぱらぱらと眺める。そういえば、恐怖というのは、喜怒哀楽のどれにも含まれていない。分裂病(旧称)の病像は、しばしば恐怖についての肖像画となるようだ。

 恐怖が言葉の下にとどまっている状態が、通常人の恐怖状態とでもいうべきもので、恐怖が先に立って、あれやこれやの理屈が、てんでばらばらに、病者の周囲を混乱しつつ浮遊して、きまぐれに病者に襲いかかる状態を分裂病(旧称)と呼ぶべきなのだろう。

 小谷野さんの「東海道五十一駅」など読むと、将来への懸念や家庭で落ち着けないことへの不安といった、治療者によって原因とみなされがちな事象がベースに居座っていて、閉所入場や乗車体験などがきっかけとなって、発作がはじまるらしい。ベース事象にたいして無理矢理な解決を焦って行為すると、たとえば「悲望」のようになる。対応することにおける意味上の病というのが精神病なのかもしれない。病者が「悲望」体験を経ていることを知っていたら、治療者は、例えば森田療法などは薦めないであろう。

 エネルギーに関しての国家政策や、東京電力の鉄面皮などを、誤解している人もいるかもしれないが、あっちのほうが理性なのだ。目的があって、それを推進しているのだから、理性です。他者への配慮が欠けた一方的なふるまいを、「盲目的」と表現するが、一つの方向を見定めているのだから、じつは盲目ではない。そして、理性にはかならず盲点がある。見えることは、同時に盲点を引き受けることでもある。見えていなかったところからアクシデントに襲われたときに、理性は言葉を失うしかない。茫然自失というではないか。