つよのあとさき(3)

 映画『第七艦隊』の劇場公開がせまっていた映画監督の浅田晃が主催する上映会のスタッフに呼ばれた丈尾加はすこし早めに東京大学教養学部ちかくの会場に着いた。上映会は浅田の旧作や親交のある映画作家たちの作品を、一週間にわたって上映していくというものだった。小雨のそぼふる寒い中、会場である劇団のアトリエはまだ閉まっていて、丈尾加は来る途中でみかけたコンビニに戻ってホットドッグを買ってそれを食べながらアトリエに戻った。

 事前にメールで連絡があったとおりの時間に浅田がやってきて、アトリエを開場した。丈尾加は三階に上って機材室に入り、電灯を点けた。箱馬や平台が撤去されてがらんとした舞台の奥壁の、臨時にしたてられたスクリーンが照明をあびて浮かび上がった。材料と呼ばれる細めの材木を枠に組んで、それに布を張ったもので、簡易なものだが、周辺を暗幕で囲っているために安っぽい感じはさして受けないようなものだった。

 プロジェクターは前日のセッティングのままになっていたので、丈尾加は配線を確認して順次再生装置を起動させた。プロジェクターの入力をブルーレイディスクの再生機からのHDMIケーブルに一本化して、HDVデッキからの映像は、iLINKケーブルでブルーレイの外部入力に流し込んでいるのを、丈尾加ははじめ気がつかなくて、接続を飲み込んだときには、ずいぶん簡単なものなのだなと呆気にとられた。映像と音声がひとつのケーブルで送られることに、よく考えたらテレビ放送のアンテナ線の同軸ケーブルだってそうなのだが、丈尾加はまだ馴染めないでいた。

 プログラムの最初は浅田の『とうとう真剣に劇』で、丈尾加が、ボランティアであるこの日の上映スタッフに名乗りをあげた目当てが、この作品なのだった。おおくはデジタルビデオで撮影され、たいがいは個人持ちのパソコンでこつこつと編集され、ほとんどがデスクトップで完成をみる今の時代の自主映画だが、昔の自主映画と変わらないのは、ソフト化されて気軽にショップで借りて家で観ることができないという点だ。YouTubeに作品そのものをアップする自主映画作家は、いまだに少数派だった。

『とうとう真剣に劇』の内容は、事故によって片腕を失った男が、失ったはずの手の痛みになおも苦しむという医療ドラマだが、医師が男の不思議な病気の原因を探っていくミステリー的な要素は、わりと映画の後景に退いていて、平穏な日常が突然に事故というかたちで奪われた男の空虚感や淡い悲しみなど、心情的な要素を強調した叙情的な作品だった。『第七艦隊』を先に観ていた丈尾加は、重厚であるはずの政治討論劇を軽妙な娯楽作に仕上げた浅田の、また違った別の一面を垣間見られた気がして深い満足を味わった。

 上映が終わって、明るくなったスクリーンの前に浅田があらわれて、観客に挨拶し質疑応答をもうけた。客の入れ替えの時間になって、次の作品の映像を調整していたら、浅田が調整室に入ってきたので丈尾加は浅田晃と作品の感想など話し込んだ。男が主治医と交わす、商業映画ではまず不可能なくらいの長回しによる脳についての談義が面白かったこと、ラマチャンドランや養老孟司の著作についてのことなどだ。訥々とした口ぶりにしばしばはさまれるはにかみから、丈尾加の感想に浅田が興がっているのがうかがえた。

 会話の対象は翌日の映写スタッフに来る幾与志に移った。幾与志と丈尾加は同じ専門学校に通っていた知り合い同士で、この上映会に関わるようになって、久しぶりに顔を合わせたのだった。浅田は幾与志と丈尾加が旧知の仲だったことを知らなかった。幾与志は映画にも音楽にも詳しく、関心の幅はそれにとどまらずに文学などにも通じていて、最近の友人である浅田にとっては刺激的な存在だった。

 丈尾加は創作の道にわりと早い段階で見切りをつけて舞台装置の制作会社に就職して、自主映画は趣味でほそぼそと続けるくらいだった。専門学校に通っていた頃はファストフード店で流行のエンタメについての感想を述べあっていた幾与志や丈尾加たちだったが、丈尾加にかぎっては流行のあれこれに関する感度は衰えがちであった。浅田の友人としての幾与志の紹介で、丈尾加は浅田の劇場用作品の試写会に招かれて、渋谷の会場で『第七艦隊』を観て感心したのだった。

 東急本店そばのひもの屋の、試写会の打ち上げの席で、浅田とその仲間たちが企画して映画の上映会を行おうとしていることを丈尾加は知った。もろもろきびしい台所事情なのでバイト代は出ないがボランティアのスタッフを募集している、ということを聞いて、畳にひろげた上映会のチラシのスケジュールを眺めながら、この日だったら俺、出てもいいよ、と丈尾加は言った。そういえばそろそろ仙台へ出張なんじゃないの、と幾与志は丈尾加に訊いた。仙台のテレビ局のイベント用のセットの追加部分を東京で製作して現地に運び、現地の既存セットとの調整を監督するために、丈尾加は主任として仙台に出張しなければならないのだった。「あれは開催時期が押していてね、もしかしたら3月に入ってしまうかもしれないんだよ」