赤坂に通うサラ・コナー

 なんだかNHKのうつりが悪くて、アンテナ線をあれこれいじったのだが、かんばしくない。テレ朝で『トータル・リコール』をやっていて、マイケル・アイアンサイドの声が羽佐間道夫だったので、このバージョンは知らなかったなあとかノイズまじりの画面を見ながら思いつつ、ザッピングしていたら、TBSでは小島慶子が出ていた。ラバー製のスカート?が目を引く。なんというか、小島の顔アップの撮り方が、ドキュメンタリー調というのか、照明を落とした日中の室内に、窓から入ってくる光をあてにして撮影しているので、顔の凹凸がくっきりと強調されることになってしまって、画面が全体的に青暗いし、なんだか悽愴な雰囲気までかもしだしてしまっている。「女が思い詰めているときの顔」まんまになってしまっているので、こういうのは苦手だから、ちょっと見てられんなあとか思ったが、日テレではダウンタウンが後輩いびりコントをやっていて見るに耐えないし、そうそう上杉隆が降板させられたのって小島の番組ではなかったっけと思い出して、ふたたびチャンネルをかえたらまだ小島のドキュメンタリーは続いていた。

 画面の中の小島慶子はあれこれと自分の報道人としての信条を早口かつ聞き取りやすい口調で述べていて、その中にデマを拡散したくないのだということも含まれていて、まああたりまえのことといってしまえばそれまでなのだが、ふと思ったのは、小島が外に出てあれこれみることができないから、よりそういうことに気を使っているのかな、ということであった。頼りになるのはスタッフと、各種の経験を積んだゲストと、メールによる外部の一般人の声しかない。筒井康隆の短編に「経理課長の放送」というのがあったけれども、どんなに手慣れた人間がアナウンスを担当することになっても「経理課長の放送」性というようなものは、残るのかもしれない。パーソナリティという言葉は、1980年代にぐわっと放送の世界で一般化した印象があって、私などは「なんだよパーソナリティって、アナウンサーだろ」と思う口だが、インタビューによると、画面の中の小島慶子は画面の中の小島慶子を一種の人形として制御しているという感覚でいるらしいのである。よって「パーソナリティ」であると規定するのだ。