大出版社と出版社

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 昨夜の議論の続き。

 「純文学と文学」という区分にならうと、「大出版社と出版社」がいいのではないかと思う。小出版社というのは、企業の規模を示しはするが、いわゆる「大出版社」の生産物とは傾向が異なる。専門書をほそぼそと出しているというのが通常の「小出版社」のイメージだが、過度に大衆的なものを出すところ(鹿砦社)もある。

 私はビジュアル全盛時代に思春期を送ったので、価値観が狂っているというかずれているのだが、普通は一般人というのは、ビジュアルは本にとってはオマケであると思うらしいのだ。ほら、マンガを本と認めるか認めないかで意見が別れることがあるでしょう?

 大出版社というのは、ここでは文春と新潮社と中公(婦人公論)、NHK出版などを念頭においているのだが、こういうところの新聞広告はビジュアルなものだから、いちおう人目をひく。

 小出版社が健康についての本を出すときには、広告ビジュアルの工夫をする必要がないらしいのが興味深い。健康というのは多かれ少なかれ内面と関わる概念なのだ。

 ベン図でいうと、出版社の中に、さらに特殊概念として大出版社があるのだろう。ここは、大衆にも馴染めるような広告を打つ。大衆のすべてがふりかえってくれないのだとしても。

 そして新聞以外にも週刊誌というものがある。週刊誌で100万部でたものは、バブル時代にもそうなかったと思うが、ちょうど一ヶ月買うと週刊誌の値段は文芸単行本一冊と同じくらいになる。たいていの週刊誌は、四週分を累計すれば100万部になるだろう。

 通勤時間に週刊誌を閲覧して駅に着いたら捨ててしまうというのは、そういう人もいるかもしれないが(いまは高度情報化社会でバブル時代を経過していることだし)、いちおうは一週間は捨てずにおいて、時間があいたらちょこちょこ覗いて暇をつぶすのに使うのではないか。

 あるいは「週刊誌を出している」というのも、大出版社の定義に入るか。中央公論はこの定義からは外れかかっているわけだ。大出版社は、広告、つまり自社の生産物たる(文芸)単行本の写像をも社会に流通させているわけだ。

 テレビって何かといえば、ようするに写像の点数が理論的に無限になるのだ。これはプリント数が写像点数を拘束する映画や印刷にはとても太刀打ちできない特性である。映画が実際にテレビに「食われた」時代の記憶が、社会に根強く残っている(と、されている)。

 だから「出版」社は、電子出版に期待を寄せるわけだが、有料テレビ放送ほどにも浸透するだろうか、これはまだわからない。現在の社会は「ケータイ小説」の流行と衰退というかたちで、電子出版の第一段階を済ませたところにある。

 そういえばノベルス版というのを私は手にとったことがない。推理小説にあまり興味がなかったからなのだが、ここで評判になった作品は単行本に格上げになったり、文庫版に移籍したりする。ノベルス版についての手頃な歴史を記述した本はないかしら。文芸の新書判ということだったのかな。松本清張もさかんにノベルス版を出していたんだし。

 おもいのほか長くなったので、ここらでいったん打ち切る。