写像理論

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110417

 ただ、大衆もまた「テレビと映画でお腹いっぱい」だったかどうか。小学校で字の読み書きを教わっているのだから、本を眺めるくらいはするでしょう。

 私は「読了率」ということを考えるのです。大衆は著しく読了率が低いけれども、「ベストセラー関心率」というのはそこそこあるのではないか。

 だいたい宣伝というものをする、それも新聞にする、その新聞が何百万部とかなのだから、「関心率」は高いだろうし、その宣伝の惹句で本の内容はなんとなく、リベラルではなく、なんとなくわかる。

 『世界の中心で、愛をさけぶ』の宣伝で、電車に広告が打たれていたことがあって(吊り広告か、ドアグラスにシール添付だったか失念)、文芸単行本で電車に広告出すのって珍しいなあと思った記憶がある。

 だからここ数十年の文芸はおおかれすくなかれ、テレビやその他メディアの写像である、という表現をする。大衆はテレビや映画を見る、なんのために見るか、それはやはり多くの人は愛や生きる意味を見いだすために見るのではないか。愛や生きる意味について考えるのは、テレビなどよりも文芸のほうが老舗である。老舗のほうが敷居が高いというのは、これはそれほどおかしなことではない。

 出版点数の激増とか、書店における商品回転率の増加などは、1980年代以降の話だろうから、まだ学問的言説が落ち着いていないのかもしれない。書店の動向だけを見ていると、情報の洪水もいいところで、出版界が発狂しているのではないかと思えるが、街の書店がコンビニ化し、どんどん品物が入れ替わる一方で、インターネットの発達が、書物に関心ある層の知識の欠如を補完してくれている。

 私だって「なぜ文章でなければいけないのか」と問うけれども、文章を書かないわけではなし、本も読まないわけではないのです。テレビがつまらないことは、大衆のほうがよほど判っていたりもする。いつも見ているんだから。