日本語について

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110420


 鈴木貞美小谷野敦の論争は、ざっと眺めたかぎりでは6対4で鈴木有利の印象。とはいえ、じっくり読み返したら違う印象をもつかもしれない。

 そういえば鈴木氏は『身も心も』の原作者なのだった。映画版しか観ていないが、この作品は、表現においては良し、ガッツとかソウルの領域においては?な出来であった。

 『ウラニウム戦争』を読んでいて、ダークマターを律儀に「暗黒物質」と訳しているのが気になった。こんなの、「不明物質」とか「未詳物質」とかでいいのではないか。ダークコンチネントを「暗黒大陸」としていたのを馬鹿の一つ覚えで繰り返しているのだとしか思えない。

 とはいえ、やまとことばでも、なにかに不案内なことを「〜に暗い」と表現する。

 科学は近代科学のマナーのようなものが確立される以前の語彙をも利用しているので、この種の誤解をまねく表現に満ちているともいえる。人文系にだって、そういうことは言えるのではないか。

 たとえば「爆発」というのが、そうである。核爆発は、いわゆるふつうの火薬がそうなるような爆発とは違うのだが、核「爆発」という表現にひっぱられて、火薬の爆発のもっと大掛かりなものなのだとみんなが思っている。そしてやっかいなことに「大掛かりなもの」とはどういうことかの合意を人々が確認しているわけではないから、上記のような核爆発理解でも、間違っているとはいいきれない。

 だって爆ぜる(はぜる)ことが起る(発する)だけなんだろう、じゃあ同じことじゃないか。そうも言えるわけだ。

 それこそ、個人的な感情からしたら「日本語」なんておいそれとは使えないぜ、という気がする。とりあえず「やまとことば」としてみたが、ほかには「マニュアル言葉」とか「ネット方言」とか、そういうものは、ちゃんとある気がするが、「日本語」なんて、本当にあるのだろうか?

 マニュアル言葉やネット方言を使うのは、「おれたち」だが、日本語をつかう日本人を見たことなんか、少なくとも私はない。私が確信をもって言えるのは、私が使う言葉が、文部省(いまの文科省)の取り決めたきまりのなかに、おおよそは含まれているということだけだ。この場合においては、「日本人」は「宇宙人」と位相を同じくするわけである。



追記。

http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano11.pdf

 上の文章は、このファイルを読む前のものだったのだが、これを見たら8対2にせざるを得ない。「そもそも概念の制度など問題にする必要がないと考えている人には、無縁な議論なのです。」というのは、すごく納得。

 ただまあ、鈴木氏が小谷野さんにくどくど講釈している「スキームの対象化」というなにやら難しげなことを、私はもっと簡単明瞭に表現することができて、要するに「精神分析(自己分析)」ということである。