言文一致の顕教と密教

 『日本の文化ナショナリズム』を読んでいる。言文一致のところが面白い。坪内逍遥は、じつは「ことばと文章は一致して、かつ、あらゆる文章が一様なものに統一されなければならない」と考えていたのではなかろうか。

 すべての人が、見聞きしたこと、考えたことを、同じように表現することが、もしできるのならば、これはものすごいことになる。文化の力によって、テレパシーと同等のことを実現するようなものだ。

 そう思うと、人文学がにわかに素晴らしいことのように思えてくる。思ってもいいのだろう。

 すべての人が同じ表記をする夢を、たとえば、わりと最近では(それでも数十年前だが)梅棹忠夫がローマ字表記を例にとって、語ったのだった。

 鈴木貞美上田万年(かずとし)が自らの主張する表記法を自分自身がなしえなかったことをもって、上田を非難するのだが、ごく幼稚な論理だと思う。「私も出来てないけれど、これから頑張りましょうね」なんてことは、いくらもある。梅棹だって、著作をローマ字化することはなかった。