鈴木対小谷野論争・余燼

 これは典型的な詭弁ですね。逆ではなくて、ほとんど同じことですよ。「ゆとり教育のおかげで学力が低下した」と政治家が言い、ゆとり教育をやめて、それでも学力低下が止まらない時に、記者から「あなたはこう言ったではないか」と言われて「ゆとり教育をやめれば学力が向上するなどとは言っていない」などと言って通用すると思いますか。(http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110423

 これはまったくそのとおりで、私も鈴木の文章を読んでいて首を傾げた箇所だ。たしかに論理的には逆のことなのではあるだろうが……。もちろん「政治家」は、「私が知らなかった第二のファクターがあるのであろう」と言うことができるわけだが。

 小谷野さんは「だいたい1980年代半ばころから、従来の「純文学」「大衆小説」の違いに逆転現象が生じてきた」と言うのだが、これは私の語彙におきかえれば、このころから封建主義的なセンスが日本の文芸から蒸発しはじめたということになる。(男尊女卑という言葉でいちど話題にした→http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20110415)現行のシリアス文学とされているものが、しばしば弱者を見守る視線を、それが父性的でもありえてしまうためにか、放棄してしまうのも、この流れのうちにあるでしょう。村上春樹などは、それを気にして『アンダーグラウンド』などを書いてみたりもした。マンガや通俗小説にこそしばしば真実が描かれるという小谷野さんの持ちネタ(「どんぐりの家」を紹介するなど)も、文芸のこの傾向へのカウンターなのだと私は了解している。

 もちろん日本の封建主義が蒸発してどこかへいってしまったわけでもなく、かえって蒸留されて右翼的な言説として新書版などの分野でにぎわってもいる。ただここにもある哀しさのようなものがつきまとっていて、呉智英は老親の介護など「上への封建主義」は全うしつつも、結婚して子供をつくって妻や子にたいして封建主義を実践するようなことはなかった。養子をとらなかった江藤淳も、そう。

 いわゆる文芸という形では、著者は封建主義を描きづらくなっている、あるいは特殊なジャンルを必要とするようになった(時代小説など)というのは、もっと研究されてもいい。江戸幻想というのも、この流れの一部だろう。1980年代に社会に出た人々が、現在の社会の支配層になっている。アメリカの洗脳が1980年代にやっと芽吹いて、2010年代にとりかえしのつかないところまで進んだ、ということなのかもしれない。純文学と称して娯楽文学をやっている人々をはたで眺めていると、私は行き詰まり感をどうしても感じる。あなただってこの社会に生きて、この風景を見ているのに、なんでそのことを創作に盛り込まないで、いつまでも虚ろなものを製作しているの、と。

 保護関税としての純文学擁護の主張というのが、純文学専業でも生活できるように、というのであれば、やはりそれは難しいのではないか。これからは娯楽小説作家であっても生活が苦しくなっていくかもしれないのに。単に発表の機会を、というのであれば、書くそばからネットで発信できる現在にその主張はおかしいものだし。あるいは、純文学だからってバカにされるのが悔しいというのであれば、それはバカにするやつのほうこそバカなのだから放っておけばいい、ということになる。