帰属意識の二重化は、近代的なプロセスだろうか

 鈴木貞美は『日文ナ』で「ある国家や民族が、ある文化圏に属しているという意識は、人びとの帰属意識アイデンティティ)を二重化する」(152ページ)と述べている。

 トインビーやシュペングラーが文化相対主義的な文化圏の発想を考えたあたりの説明で、鈴木はこれを述べているわけだが、しかし、こういった「既知集団の外側にも既知集団を包括する集団がある」という発想は、そもそも人間の条件と言っていいくらいに古いものではなかろうか。

 原始人だって「自分たちの集落」と「広大で畏怖すべき自然」を対にして考えていただろうし、日本のたいていの社会の民衆、下層民は現在に至るまで「自分の家」と「村(あるいは会社)」が、二重化された帰属意識としてあっただろう。「自然」にしろ「村」にしろ、「集落」や「家」よりも抽象的であることは、「文化圏」が「国家や民族」よりもさらに抽象的であることと、位相を同じくしている。

 西洋は、かなり早い段階で「人(世俗)」と「神(抽象的な宗教世界)」の区別を明確にしたから、ユニークであるとすら言える。西洋の近代は世俗化することに特徴があるが、日本の近代(明治から敗戦まで)は逆に禁忌をきつくするところに特徴があるといえる。明治天皇は目安箱など置かなかった。

 帰属意識が二重になることで、ヒトははじめて人間になるのではなかろうか。