『友達がいないということ』

 買って読んだ。

 便所めしという言葉は知らなくて、検索したら、最近賑わっている用語のようである。私は、一人で食事するということを恥ずかしいと思ったことがなくて、大学は夜間だったし、昼間はその大学の雇員をしていたから、ひとりでぱくぱくと学食を食べていた。

 だいたい便所でものを食べるなんて、不衛生ではないかと思うのだが、よく調べていないし、本当は便所でなど食べてはいないのかもしれない。他人のことはよくわからない。私は同世代の人や若者の生活習慣や社会風俗にまったく関心がないし、社会に出てしまえばわりあいに勝手も不精も利くものである。

 友達がいないことになやむというのは、多分に自意識過剰なような気がして、私はそういう悩みに冷淡なほうである。小谷野さんがこの本を、便所めしという言葉の紹介からはじめることに、なにか問題の核心のようなものを見る気がする。

 私は、日本の若者の精神というか思潮というものが、過度に反国家的、反科学的なのが気に入らないのである。多くの日本の若者が、結局は日本円を使って、現行の日本国のとりきめ(制度)の運用のシステムにのっかっているくせに、なにか反国家的なことを嘯こうという態度でいるのが気に入らないのである。科学への関心が薄くて、妙に精神主義的なのが気に入らないのである。現場がない感じが、いやでいやでたまらないのである。私はわりに自意識が希薄なほうで、小谷野さんが巻末で言うように世間に孤独自己責任論が誤謬であることを認めさせたいとか、そういうことは思わないのである。世間というのが便宜以上の存在とは思えない。私は、いろんな孤独があって、それらを知らせたい人がいるのであれば、余裕があるかぎり私はおつきあいしましょう、という感覚である。

 社会というのは、結局はなにがしかのテクをおぼえてそれを活用する場をさがすことに終始するフィールドであるし、それ以上のものではない。

 だからこの本は、わりとなんのひっかかりを感じることもなく読み終わった、といいたいところなのだが、一箇所だけ気になるところがあった。阿部和重の小説を紹介するくだりが妙に晦渋になるのである。

 普通の人は、そのひとが普通であることをもって、友人からいきなり全否定されるということはない。阿部の小説は小学生との性交経験もあるロリコン男を主人公にしたもので、主人公がせっかく知り合った女に彼の性癖が露見して絶交されるという多少特異なシーンがあるのだが、小谷野さんはこれを紹介しながら、友人から自己を全否定されることの恐怖についての一般論を抽出するのである。論理自体にも無理があるし、悪行を行う者は誰であれなにかしらの自己正当化を行っている(だから突然の全否定に恐怖する)のだという補助説を付け足すなど、行論の様子にも難儀の気配がある。

 本当に孤独で参っているときは本など読めない、北方謙三の本のくだりで小谷野さんはこうも言うが、本が読めない孤独というのは、やはり孤独ではないなにかべつの病気なのだと思える。孤独にたいするロマン的な願望を感じるのだ。

友達がいないということ (ちくまプリマー新書)

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