まったくありえない話でもない

 ごく基本的な話をすると、封印というのは、封をした確認を残すことで、閉じ込めることそのものを指すのではない(つまり、安藤があつかう物件の大多数は、「封印がないもの」がたしかに封されたかどうかを確認する作業だというのに、という意味)けれど、まあそれはいい。

 (よけいなつけたしを続けると、例えば、芸人が、自分の意にそまなくなった持ちネタを、今後やらないと宣言して、ファンがその過去の持ちネタを知ってくれているのはうれしいけれど、自分(芸人)は、もうやらないと公言している。この場合の「芸人の持ちネタ」は、あきらかに封印物件である。封されていることを、芸人自身が知り、他人も知っているのだから)

 私はいままで、志賀直哉の国語フランス語化論を愚論だと思っていたけれど、皮肉なことに安藤の(よく調査された)この文章を読むことで、まったくありえない話でもないかもしれないな、と思うに至った。要するに志賀は、みずから判断しておのれの言語すら変更できるほどの、極度に自主的かつ自律的な国家を夢想していたのではないか、と私は思ったわけだ。よその国から言語の変更を強いられた国は多々あっても、自分から変えた国はない(と思う)。その最初の国家という名誉を、大日本帝国が担うべきだ。わりと単純に、志賀はそう考えたのではなかろうか。自分にできないことを後代の人間に期待する、というのも、わりと一般的な老人の思考である。

 なぜ安藤の本の、この部分(志賀の国語変革論)に注目したかというと、直近に鈴木貞美の議論を見ていたから、ということが大きい。教育さえすれば、それも、うまく教育さえすれば、日本の児童だって、フランス語を話すことはできるだろう。人工言語としての外国語ということを思ったわけである。未来の日本人は、フランス語化された万葉集源氏物語を受け継いでいけばいい、という志賀の発想はSFじみていて、なんだかカッコイイと思うのである。