『封印作品の憂鬱』

 まだアニメドラえもん日テレ版編だけ流し読みで熟読してないのだが、これは力作で読み応えがある。

 チャイヨープロの『ハヌマーンと5人の仮面ライダー』がユーチューブにあった。東映はお金をとってスーツ(アクターもか)を貸し出したのだろうか。東映作品のデュープ映像も使用しているし。

 ぱちもんキングダークがなかなか衝撃的。目出し帽の頭にヘルメットをしているようなライダーマンの解釈は、…間違ってる。

 私はあまり作品論に関心がなくて、作品をとおして時代を語ることに興味を感じる方なので、安藤が感じたビジネスライクなソンポートへの不信感や、『涼宮ハルヒ』シリーズに関する安藤の思い入れ(この本のタイトル自体が『涼宮ハルヒの憂鬱』へのオマージュというか連帯感の表明なわけだ)が理解できなかった。

 経営者がかわったことをもって、『A』と『タロウ』の間に線を引く歴史観は新鮮だった。私のこれまでのウルトラシリーズ歴史観は、『レオ』と『80』のあいだに引かれていた。まあ人並みの歴史観だと思う。

 私は初代マンやセブンの暗くてミステリアスな雰囲気が好きだから、あまり第2期のウルトラシリーズには思い入れがないのだが、経営者としては新作を作り続けなければいけないのだから、思い入れがどうとか言っていられない、というのは、わかる。

 あまり安藤は言っていないことだが、やはりテレビというものの意味を考え直さなければいけないのだなあ、と思う(安藤はあまりテレビを見ない生活スタイルであるらしい)。テレビは映像でもあるが、それ以前に放送、つまり無料で、しかも居ながらにして享受できる、ということの、あえて言ってみれば「異常さ」を思うのである。

 いまだにテレビの影響力はデカイ、わけなのだが、その影響力というのは、はたしていったいなんなのだろうと思うのだ。実は、気分にたいしての影響力でしかないんじゃないの? と、私は思っているのだ。

 人気がなくなったために、あるコンテンツが歴史のかたすみにひっそりと置かれることになることを、安藤は仕方がないと思い、そして、べつのコンテンツがポテンシャルを秘めているのに第三者の思惑によって「封印」されてしまうことにたいして、安藤は憤るようなのだが、じつは、それは案外に宗教的な感性なのではないかと思うのだ。

 歴史を改ざんするなと怒ってみせる人たちというのがいるが、私なんかは現在はできるだけ過去の制約から自由であるべきと考えるほうだから、歴史に関してのモラルはあまりない。したい人が、めいめい、勝手な歴史を記述してウェブにのっけておけばいいだろう、と考えてしまうのだ。

封印作品の憂鬱

封印作品の憂鬱