経済学

  • 経済学以前

 要するに人がいて物があって、人は適宜いれかわり、物は流転していつか消滅する。平たい人間学の知見がまずは観察される。つぎは仕事だろうな。仕事があらわれる。同じことをやる、やりつづけることに、人間はなにか安心感を抱くようなのである。仕事があらわれて、つぎに身分が登場した。身分という概念の便利さにやられて、人間はそれまでの価値を、身分という尺度で再定義したりもした。

 これが経済学をやるまでの前史だと思う。これをふまえておかなければ、何もはじまらないと思う。つまり、安楽になるまえの人間は、必死だった、ということ。必死なときの人間はしばしば混乱しているから、いろんな無茶がとおってしまう。これらを踏まえておかなくてはならない。

  • 代用からはじまる

 必死であるということは、代用の可能性について、空想したりする余裕がないということだ。しかし、いまの私たちの時代は、代用の時代、他人に代用の仕方を教え込んで、本物とされていたことを、ゴミ箱や倉庫にたたき込む時代なのだ。

 身分と仕事、身分と仕事、身分と仕事。人間の頭はこのふたつのあいだを永遠にループしつづける。きっと脳のしくみに関係しているのだろう。身分があるから仕事をするのか、仕事をするから身分があるのか。

 下々の人間までが貨幣社会に追いたてられた。日本社会にかぎってみれば、このことはそう遠い昔にはじまったことではない。住みこみで働けば、家賃などを稼ぐ必要はない。

 私は物の価値というのがわからない人間だった。きっと自分(の頭)が悪いのだろうと黙っていたが、だんだんわかってきたのではっきり言ってしまう。要するに価値は市場が決めるのだ。これは経済学的な言い方だから、ふつうの言い方に直すと、誰も責任をとってくれない、ということだ。もっとひらたく言ってしまえば、決まっていない、のである。非存在が存在している、みたいなものだ。

  • 市場が決める、というのと、誰も決めてくれない、というのは同じ意味

 貨幣社会というのは、誰も責任をとってくれないから、常に他人に注意して、異変にそなえていなさいよ、という社会である。代用しつづけなければならない社会とは、そういうものだ。質にたいする不安というのがつきまとう。身分という考え方から人間は解放されないからだ。

 じつは仕事がダイレクトに他人に寄与するものなのか、それすら本当はよくわからない。食事をつくることくらいしかない。しかしこれだって、間違って毒を混ぜて、仕事の受け手を害してしまうこともある。動機から判断されたり、結果から判断されたり、いろいろだ。善意から子供にたべさせた魚に放射能が入ってました、とか。ユッケとか。

 なんで貨幣なんかで、仕事と消費のあいだにワンクッション入ってしまっているのか。そこで、国家についてあらためて考えなければならなくなる。

  • 国家

 国家というのは、ここでは要するに、ひとつの場のことだと考えよう。場が一つしかない。だからルールをきめるのも簡単だ。簡単に場が運営されていく。こういう建前だった。だからルールのことは、定説、じゃない、常識とも、呼ばれる。

 本当は言語ということも考えなければならない。みんなうすうす気がついているけれども、言葉というのは、ただの音だったり字だったりするだけで、気になる人の言葉でないと、言葉が言葉になって、自分にたいしてせまってこない。これこそが、言葉の重要な特徴だ。通じたり、通じなかったりする、という特徴だ。しかしこれは面倒なことなので、経済を語るさいにはつねに後回しにされる。だから経済の評価は常にいいかげんなのだ。経済が現象で、すぐに消えていくものなのに、さらにそれを、すぐに消えたり、すぐに意味がかわったりする言葉というもので評価しなくてはならないなんて、というわけだ。