娯楽小説の傾向について

 『プリンセス・トヨトミ』の映画版を見た。1970年代にはやった偽史ものの現代版といった感じの映画だった。梅原猛をモデルにとったような大学教授がでてきて(江守徹)、豊臣家は滅亡していなかったのだと自説を披露したりする。

 去年は『告白』を見ていて、これにもいろいろ思うことがあったのだが、要するに、最近の娯楽小説(とその映画化)からはずいぶん社会科学的センスが失われてしまったな、と思う。

 『告白』にしろ、『トヨトミ』にしろ、なんだか戦後から高度成長期までの歴史が、社会からごっそり失われてしまったような日本を舞台としている気がするのだ。

 登場人物の経済状態がまったく描かれなくて、観客は人物たちの生活やファッションで、なんとなく想像しなさい、ということになっている(映画では)。

 私などは、子供の頃から『うちの子にかぎって…』など見ていたから、「子供がこまっしゃくれている」ことなどは、いまさらとくに表現するにあたらない、とつい思ってしまうのだが、『告白』の子供たちを見ていて感じるのは、物語の作り手が、暴力に関わる想像力を満足させたがっているというヘンな方向性についてなのだ。『うちの子にかぎって…』になかったのは、こういう暴力への想像力であって、あのドラマには陰湿ないじめをテーマにした回があったりするのだが、暴力そのものを描いた話はなかった。

 暴力は、そもそも避けられるものなら避けたい悲劇でしかないのだから、ドラマからは排除されていたのだ。

 『告白』の、「大学教授の母親」が映像の巻き戻しによって「何度も爆死」することに顕著だけれども、暴力というものを、表現の領域に引き降ろしたいという、現代の作り手の欲求を感じるのだ。

 どちらかというと、1980年代よりも現代の方が暴力沙汰が減ったから、かえって暴力への興味が徒に娯楽小説に表現されてしまうのだろう。暴力への恐怖が、物語への好奇心へと転化されているようなのである。

 私が興味あるのは、かつての娯楽小説の書き手たちが、万城目学森見登美彦に感じる共感と違和感についてである。五木寛之浅田次郎たちが、彼ら(を時代が要請していること)を理解しつつも違和感を隠せないでいるのが面白いのである。私は、正直いって万城目や森見を読み通すことはできないが、若い世代が彼らを必要する気持ちもわかる気がする。