解像度と動き

仕事まわりであれやこれやと忙しくて、あまりブログに書くことも思い浮かばないので、映画のことを書くしかないのだが、映画の映像の解像度は、何が正しいのかなあということ。


もちろんこういう問題設定が、そもそも当を失しているもので、映像は映像でしかない。しかし、オリジナルの映像、ちゃんとした映像、原映像とでもいうようなことを、ついつい理想として思い描いて、それを実現するためにあれやこれやを考えて、そのために動く。


DVDプレーヤーを買い替えて、これはひさびさの国産品だったのだが、やはりずいぶん「映像がきれい」で、海外製や国内マイナーメーカー製のものとは段違いにすぐれている。こういうのって、なんなんだろうなあと思うのである。そりゃあ、回路とかそういうところに企業の努力の粋が結晶しているからだよ、といわれれば、そうなのだろうが。


アナログ時代の映像は、レンズで曲げた光をフィルムに定着させていたから、解像度は、レンズとフィルムの大きさ(幅)に依存していたわけだ。デジタル時代は、フィルムのかわりに感光素子が導入されて、これも大きさが解像度に影響する(のかな? 不勉強ですみません)。


家庭内で大画面を楽しみたいという欲求が、私の場合はあんまりないのである。視覚における、大きさの重要性ということを考えるのだが、どうも大画面テレビを狭い家のなかに入れることが、知恵のないことのように思えて仕方ないのである。このMacBook Proの画面は17インチしかないが、まあ、個人用途ではこれで十分だと思うのである。私のテレビモニターは14型のブラウン管で、もうテレビは映らないから(家主にUHFアンテナを立てるようにかけあうのが面倒くさい)、このモニターには私のお気に入りの『アンドロメダ…』(『アンドロメダ病原体』の映画化である。傑作だと思うのだが)や『砲艦サンパブロ』をBGVとして流しっぱなしにしている。映像が遍在することについても話をしたいのだが、それだと話が散漫になりすぎるか。いや、私の話はいつでも散漫なものであるが。


映像は現実ではないんだよね。要するに、そういう話をしたいのである。とはいえ、愛知万博で見たスーパーハイビジョンは異様だったなあ、ということも話をしたいのだが、時間が来たので、今日はこれでおしまい。