ある種の人間の機械っぽさ

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小谷野さんのこのやりとりは私にはちょっと面白くて、この「キルステン」さんの「まさ」さんへの応答が、直近に読んだビンスワンガーの本の患者の症例を彷彿としたからである。


「まさ」さんの主張は、私なりに言い換えれば、小説作品『言壺』の問題意識が狭すぎて遊戯性が過剰に感じられるために真面目に読み続けることができない、ということになるだろうか。


「キルステン」さんの無意識は、実は「まさ」さんの言いたいことを見抜き、かつ是認しているのであろう。「まさ」さんの主張を、問題意識の狭さにたいする批判としてではなしに、小説作者が問題意識を展開するために虚構を構築設定すること自体への批判であると「誤読」してしまったわけである。


なぜ私がそう思ったかというと、まあ読者のあなたも気付くであろうが、「キルステン」さんが「まさ」さんの言辞(「乏しいと思われる欠陥」)を、彼へのあてつけとして引用したからである。ここで「キルステン」さんが「小説を楽しむ能力」という言葉遣いをしているのが見逃せない。対応する(はずの)「まさ」さんの表現は「社会や人間の本性に対する理解」というもので、「楽しむ」対「理解」という、まことに鮮明な対立を示している。


これ以上の分析は、私自身が『言壺』を読まねばならないから、後日に譲るが、とはいえ、今の時点でも言えるのは、ありえなさそうな設定を面白く(もっともらしく、ではない)書くことができたのであれば、娯楽小説としては万々歳なのではなかろうか、ということだ。