アミール・ナデリ監督作『CUT』が素晴らしかった


きょう新宿三丁目駅最寄の劇場シネマート新宿で映画『CUT』を観た。監督アミール・ナデリ、主演西島秀俊。劇場には監督のナデリが来ていて、ロビーで、パンフレットを購入した観客へのサービスで、マジックペンでサインをしてくれた。私の名前のつづりをナデリは聞いてきて、紙にメモすると、ナデリは丁寧にそれを写して、私の買ったパンフレットに文字を書いてくれた。

シネマートでは、以前にはオリバー・ストーンの『W.』を観ている。もしかしたら、狭いほうの劇場で『CUT』は上映されるのではないかという、勝手な危惧があったのだが、それは杞憂にすぎなくて、大きなほうの劇場で上映されたのだった。シネマート新宿の大きなほうのスクリーンは、けっこうデカい。場内もひろびろとしている。

『CUT』は、面白かった。ひとりの映画狂の青年、というよりも後期青年というか、中年の男が、映画が、本当の意味で産業に堕してしまった現在という時代に、一人孤軍奮闘で状況に対する反旗を翻している。東京という、ビルばかりが隙間なくフィールドに張り巡らされた都会に、人々は、権力によって精妙な家畜化を施されて、ただただ、棲家と仕事場を、交通機関を介して行き来している。家畜として飼いならされた人々は、つかのまの娯楽として、日常のストレスを紛らわすサプリメントとして映画を楽しんでいる。

いや、彼ら家畜が楽しんでいる映画は、かつての生き生きした、人々の共同作業によって生み出された映画とは、似て非なるものとなってしまっている。映画、いや、映像が自己を維持するための主戦場は、スクリーンが張られた劇場の空間から、もはや電波の世界へと移ってしまっている。映像の再生機や受像機は、すでに家畜が寝起きするビルの各個室への配備を完了していて、映画は、家畜の所有欲を満たすDVDやブルーレイなどのソフトとして販売するさいの利益や、家畜が「ながら見」をするのにうってつけの方式であるテレビ放送にみずからを売り込んだ対価である「放送権料」を、事前にあてこんで作るしかない。純粋な映画は、いまの時代には、もはやオマケでしかないのだ。

『CUT』の前半は、現在の東京における映画状況を観客にあますところなく提示している。もちろん、こういう都市の映画状況というものは、東京(日本)にかぎったことではないのだろう。

映画狂の青年あるいは中年の主人公・秀二は、映画をつくることができない。お金がないからだ。かれは雑居ビルの屋上に住んでいて、プレハブ小屋の壁いちめんに、かつてのまともだったころの映画監督たちの肖像をゼロックスコピーで印刷して、べたべたべたべたと張り巡らしている。宗教キチガイが聖人のイコンを壁に並べつくしているようなものだ。彼には、寝起きの一服のためのコーヒーを沸かすガスもない。

映画作りを「禁じられた」彼が、自分の情熱を注ぎ込む活動がいくつかある。街頭で拡声器を振り回して、道行く家畜たちに「本当の映画を見て、本当の映画を楽しみ、本当の映画だけを支援すること」を力強く訴える街宣活動。本当の映画を作っていた過去の巨匠たちの墓を尋ねて、彼らを参拝し、彼らの力を苦境にあえぐ自分の助けとして得ようと祈ること。油断したら「家畜に戻ってしまうかもしれない」映画好きの同志たちのために、シネマクラブを結成して、上映会を催し、彼らの「過去の本当の映画」への関心や感動を絶やさないこと。これらである。

秀二を支えていた兄が死んでしまった。兄の真吾は殺されてしまったのだ。秀二は真吾を失ってしまった。秀二は真吾の善意をいいことに、真吾に自分の夢を支える金銭的リスクをすべて押付け、自分は責任を回避し、真吾から逃げ回っていた。真吾は秀二の真心を信じて彼への呼びかけを絶やさなかったのに、秀二は応答せず、真吾は秀二のための借金が理由で、殺されてしまった。

それまで責任から逃れて夢だけを追っていた秀二に、彼の穢れを禊ぎ、責任を全うする時間が訪れる。ひたすらに男たちからの鉄拳を受けること。反撃できないこと。痛みに耐え続けること。秀二の禊とは、こういう過酷なものであった。

家畜には、性と暴力は(全面的には)許されない。権力によって、家畜は性と暴力を、金銭というスタビライザーを通してしか与えられない。映画『CUT』は、このような都市のルールを、冷厳に指摘する。ヤクザですら、暴力はカネがらみでしか許されないのだ。ただただ理由もなく、人を殴りたい。殴ることで快感を得たい。血気にはやったチンピラヤクザたちは、秀二にカネを払い、秀二を殴る。秀二にカネを払い、秀二を殴る。秀二にカネを払い、秀二を……。

秀二にとって、殴られることは、屈辱ではない。自分の存在条件を、自分で無視してきた傲慢と居傲のつけを払っているに過ぎないからだ。痛みだけが存在し、秀二は痛みに耐えなければならない。痛みの時間が過ぎてもいままでの映画狂の自分でいつづけるために。映画よ、過去の本当の映画たちよ、今のオレを支えてくれ。オレがこれからもお前たちを愛し続けて生きていくために!