エゴと心

日本の『猿の惑星:創世記』の宣伝は、薬によって知恵を増した猿が、知恵に加えて人間を思いやる情操も具えたというのに、愚かな人々が彼(猿)を迫害したので、彼が仲間を糾合して人間社会に反抗する、という物語であるかのようなニュアンスで予告編が編集されていたが、実際の映画本編は、もうすこしドライな印象を観客に与えるもので、薬品によってエゴを具えた猿が、人間に煩わされることのない新天地を求めて人間社会から決別して逃走するという物語であった。このあたりの日米比較文化論は、私にはちょっと面白い。ありていにいえば騙された訳だが、実際の映画本編も楽しかったので別に構わない。


猿に薬品を投与する人間側の主人公に関する描写が薄いのは、それらを詳細に描いてしまうと、キリスト教の神をあえて描写してしまうような、物語構成上アンバランスなものになってしまうから、製作者はこれを忌避したのではないか、というのが私の見解である。とはいえ、人(映画において新薬投与された猿)を作った神(人間側主人公の研究者)にも事情があり、それがどういう事情かというと、彼は母をすでに亡くし、父は痴呆が始まっていて、という、こういった事情が描かれることで、映画が描く物語は現時点の段階ですでに、キリスト教的な創世記の雰囲気よりも、どちらかといえばギリシャ神話的な、相対的かつ開放的なニュアンスを観客に伝えている。


エゴを主観的に描くのは難しいのである。描くばかりではなく説明するとしても、心は客観性を取り入れなければならず、それは必然的にエゴの縮小という事態を来たすからである。エゴを主観的に描くことが困難であることの実例として、たとえば漱石の小説があるのだと思ってもいい。漱石がエゴに振回される人物を描きおおせてしまうことで、読者には彼がエゴイストというよりもただの馬鹿か、あるいは病人に見えてしまうからである。フロイト心理学、精神分析が、いろいろと嘘を含んでしまうのも、このエゴを叙述することの難しさに、フロイト自身が手を焼いた結果ではなかったかとも思う。


メールなどで相手にこちらの体験や事情を伝える文章を綴るときに、私はしばしば自分のことを固有名詞で表記して、文章に客観性を与えるべく工夫するのだが、そうやって書かれた文章は、おしなべて他人事風でいわゆる文学的でないものになってしまう。


客観性を乱す要素としての「ユーモア」についても、触れておきたいのだが、時間がないので明日以降にこれは書きます。