『言壺』と『サマーウォーズ』

『言壺』は、そう薄くもない小説集なのに、一度も「表象」という語が使われない。もしかしたら見落としがあるかも知れないが、言語活動を「表象」と割り切ることなく、神林長平が文字表記や音声に制約されることのない「純言語」とでも呼びうるようなものを構想し思考しているためであろう。


私は有名なブランショの『文学空間』という本を読んだことがないのだが、神林が『言壺』において使用する「言語空間」というのも、言語という物理的実在の裏づけがないものを、それがじつは存在しているかのように考えるための手引きなのだろう。サイバースペースというのも、もちろん実際には物質や空間のような裏づけが存在しないのに、あたかもそれらが存在しているかのような体験を日々している人間にとっては、使用するにやぶさかではないから、そういう言葉が流通している。


サマーウォーズ』は、主人公を主人公足らしめるための夢物語の方便として、現実性が乏しいと私には感じられる「オズ」を登場させていて、私は少ししらけて映画を眺めていたが、『言壺』の「ワーコン」は「オズ」と同様に非現実的であっても、しかし私を興奮させてくれた。←こうも「私」を頻出させるのは、日本語の文章としては不適切だとワーコンは私に訂正を促すことだろうが、『言壺』の各短編の主人公が「おれ」や「わたし」や「ぼく」ばかりで、固有名が記されないのも、人が文章を綴ることのメカニズムを考察した結果であるかのようなのだ。短編「没文」で触れられているように、神林は物語(編中では「葉説」と名づけられている)を綴ることへの軽いシラケに訪れられつつも、純文学(編中では「根説」)はあまりに個別的であり過ぎて、自分が打ち込む対象には適当ではないと思っているようだ。

言壺 (ハヤカワ文庫JA)