文庫本という言葉

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120126
文庫本も単行本であるという表現は、省略がきつい小谷野さんのいつもの癖がまた出たもので、「藝の略字である芸という文字は藝と正反対の意味をもつ本字の芸(ウン)と形が同じになってしまっている」ということを、「芸という新字は誤りである」と圧縮する伝と同じく小谷野さんの偏屈からきている。


要するに文庫版とか文庫判とか文庫本という言葉が、袖珍本の代用語になっているということだ。物を入れておけるほど袖の広い服を着ている人は、もはやまれだろうから、それは普通の人にも了解できる。


文庫本も単行本である、というのは、普通の人にはなんのことだかよく分らないようだが、つまりはセット販売しないで、一冊、一部から販売しているから、「単行」本なのだ、という理屈である。


全集や叢書など、ばら売りしない建前の書物というものがあって、しかし、昭和の、とくに高度成長期あたりでは、大衆むけの出版事業においては、これらもおおくの場合は一巻ずつ刊行して逐次販売していた。これをも単行本であると強弁しても、小谷野流の範囲におさまるようである。岩波書店は科学系の叢書などはわりに箱入りでばら売りなしで販売していたようである。私は学生時代に図書館でバイトしていたので、そういう「本」の空き箱をまとめて捨てたりしていたものである。


文庫本という言葉も、明治大正戦前昭和のころの立川文庫岩波文庫、私も知らないそれ以前の商業出版の「文庫」冠から、大衆の中にイメージが定着していったのであろう。文庫というのは要するに文書保管庫のことなのだから、本当はとくに袖珍本である必要などないのである(袖珍本がいわゆる文庫本と同じサイズである必要もない。小型であることの表現として「袖に入る」というイメージが要請されたのだから)。すぐに絶版してしまう現代の出版慣行は「文庫」の定義に反するものだ。


新書というのは、新知見を手早く読者に紹介するといった意味合い(つまり新聞とほぼ同じ)の存在なのだろうか。小谷野さんも触れているが、昔は、岩波新書のシリーズから小説が出されることがあったのである。古典は文庫から出し、絶版がふつうにありえて、品切れしてもそれっきりという新作は新書からという、出版界の枠組みがかつてはあったということなのだろうか。


文庫クセジュが新書判なのも、いまの価値観からするとおかしいようだが、だからおかしくないのである。レクラム文庫は「ユニバーサル・ビブリオテーク(ドイツ語の発音を知らないので間違っているかもしれないが…)」なので、あえて訳すと「一元書庫」である。


話がずれるが、白書というのがあって、ホワイトペーパーの直訳なのだろうが、これは長々とした思弁などは排除して、ただ基本的な事項を簡潔に記しておくだけのものだから、紙が白い=白書ということなのだろうか。


(小谷野さんの付記をみて追加)一般読者もシリーズものから出た本はとりたてて「単行本」とは呼ばないような気がする。とくにクレストブックスなど、カバーデザインに統一性があるものほど単行本とは呼びづらい。


これは「冠」が見えるか見えないかという点と関わるのではないか、「純文学特別作品」などは、箱入りという共通点があった(今もそうなのか知らない)けれども箱のデザインの統一性が薄かった(しかし1970年代以前のものは統一性があった)から、私などは『虚航船団』と『怪物がめざめる夜』がおなじシリーズから出ていることを意識しなかった。だから両著を「単行本」と呼ぶことにそれほど違和感はない。


それとも小谷野さんは表紙の硬軟に関わらずに非雑誌のA5判の書物を、一般人はとりあえず「単行本」と呼んでいる、と思っているのだろうか。