しったか-ぶり

牧村健一郎著『獅子文六の二つの昭和』を眺めていたら、ちょっと面白い箇所があったので、メモしておく。日本語の話であって、牧村著の内容に対するものではない。


「『自由学校』の作者には、「超然とした余裕があり、読者の喜びそうな今の世間の汚らしい有様や奇怪な事件を、真面目に検討して、面白ずくで作中に取り入れたにしても、作者自身はそれについて知ったか振りをしていない超然さを私は認めるのである」(215ページ)


この「私」は、正宗白鳥のことで、白鳥が獅子の『自由学校』を褒めたことを牧村は引用して読者に紹介しているのである。


私が気になったのは、正宗の「知ったか振り」の使い方で、正宗はこの言葉を、獅子が自分の作品において最新の話題であるような情報を著者の興味に応えて取材していてもこれみよがしに衒うことをしていないので好感が持てる、というニュアンスで用いている。


「知ったか振り」というのは、わたしやおおくの現代日本人にとっては、「衒う」の代替語とはなりにくい。「しったかぶり」には、「ごまかす」とか「やりすごす」というニュアンスを感じるのである。


「「知ったか」振り」という表記が、今の私には新鮮に感じられたのである。自分だってつい最近知ったことを、おまえ知らなかっただろうとか、さあ勉強になっただろうとか、そういう感じで他人に衒うことが、もともとは「知ったか振り」の本来だったようなのである。


知ったか振りとは別個に、頭(かぶり)を振るの「かぶり」との混濁が発生して、ある知識に通暁しているようなそぶりを示す、という意味の現在の「しったかぶり」へ変貌したのではないか。