教育学によせる憎まれ口

小谷野さんがブログで、教育学にたいする憎まれ口のようなものを書いているのをみて、ふと1980年代の橋本治が似たようなことを書いていたのを思い出した(といってもそれを私が読んだのは1990年代後半のころのことだが)。出典は思い出せないが、たぶん、『蓮と刀』か、あるいはその前後の時期のものである。


さすがに橋本は、小谷野さんのように子供の出来が悪いのは遺伝のせいとか、そういうことはいわなかったような気がするが、偽善と教育、というテーマはちょっと面白いような気がするのである。


自分が責任をもつべき人間にたいして、どこまで裏側を教えるべきかというのは、人が常に悩むテーマであろう。悪用されたらというのはともかく、ショックを受けて、動けなくなってしまったら役にたたない(自分の責任問題になる)からである。


私は今映画『プロメテウス』に魅了されている。フィルム版、デジタル2D版、デジタル3D版、それぞれを渉猟するくらいハマっている。


私の目には『プロメテウス』は、教育と偽善の問題にかんして観客に要点を整理して示してくれているように見えるのである。人間のショウ博士は、エンジニアの行いが創造であり、世界各地の遺跡はエンジニアが人類に与えた教育だと思っていたが、しかしその思いが事実であるかどうかは、わからないのである。「作れたから、作っただけ」この実存主義は、人間を、いや、自我を恐怖させる。教育と偽善の間には「学習」というものがあって、教育者は教育対象の学習を内観することができないのである。


小谷野さんの憎まれ口に興味をもった人は、小谷野さんの著作『東大駒場学派物語』を読めばその背景を知る手掛かりになる。というか、手掛かりになったと私は思ったのである。


教育というのは、要するに与えられるものである。学習は、自分でするしかない。小谷野さんは、自分に与えられたものが、自分を継続してくれないことの憎まれ口ばかりを書いているのであるな、と『駒場学派』を読んでいて思ったのである。大学教授になる、というのは、少なくとも小谷野さんにとってはそういうことであったらしいのである。


与えられたものに感謝するかしないかというのは、実存主義的には無意味な問いだろう。感謝は本質にかかわるものであり、実存は本質に先行するからである。


その感謝を表明するかどうかというのも、これまた面白いテーマになるのだが、煩瑣になるのでここで止めておこう(表明というのは、コピーできる、つまり伝播するのだ…)。