犯罪の要素

他人に迷惑をかけることによって発生するであろう他人の心の苦痛を実際に他人に与えるための犯罪は、けっこうある、というか、かえってこちらのほうが犯罪の要素として多数を占めるのではないかとすら思う。例によって実証できない無駄事を私はつらつら考えているのである。


世界には「自分」(犯人の自我のこと)、社会、(実際に存在して自分の加害をうける)他人、がそれぞれ存在する。「自分」は「自分」を客観視できないのである。自分を客観視できるようになったら、その人体は(人間の誤記ではないですぞ)、平然と自己を犠牲にできるようになるだろう。映画『プロメテウス』冒頭の宇宙人のように。


私は、犯罪という事象に、軽度の関心を抱いているが、犯罪博士になるほどの興味はもっていない。最近の報道(ポータルサイトのヘッドライン程度のものだが)は、犯人の自我のありように、過度に関心を抱くようで、私は好きではない。


人殺しが出現したら近隣住民は気をつけろ、程度のことでいいではないか、と思うのである。昔は、理由を知りたがるのは、社会の管理者の役割だったが、今では社会の参加者(小谷野さんに言わせれば大衆)が理由を知りたがる。