随想

子供の頃
死ぬということが怖かったので、
かえって死を見世物にする
映画やら漫画やらに惹かれていた。


ジョジョの奇妙な冒険とか、
北斗の拳とか、スピルバーグの映画とか。


ゾンビ物とか、ホラー物とかは
直接的に過ぎて、怖いだけなので
観なかった。


脅かされる、というのが嫌なのだ。


ほかのひとのことは知らないが、
僕にとって漫画や映画に親しむことは、
死を克服するための、個人的な
イニシエーションだった。


イニシエーションに個人的というのは
変だけど……。


死んでゆく、あるいは殺されるキャラクター
に、僕は感情移入する。
そして彼らが殺される、死んでしまう。
しかし、読んでる、見てる僕は
生きている。


↑なんてヤバイ子供だったんだろう。
よく猫殺しとかしなかったもんだ。


すましかえった大人は、
特定のおかしな子供が、
たまたま死に魅せられると
思っているのだろう。


それは違う。
子供はじぶんが人間であることを
うまく理解できないから、
自分でなにかを殺すことで
なんとか死というものを理解しようと
あがくのだ。
こどもの主観は、世界そのもの、なのだ。
世界は死ぬわけがない。
世界は世界が死ぬことを想像すらできない。


ちかくをあるく猫をつかまえてみる。
ころしてみる。
僕も、このねこのように
いつか死んでしまうのだろうか?


子供は、大人みたいに
一つの立場を引き受けるということが
できないから、
自分で自分を殺すことができないのだ。
子供が自殺しないのは、
自殺をするという発想、
自分の立場を無くすことで問題を解決する発想が
ないからなのだ。


(稀に、幼児も自殺することがある
 らしいけれども……。)


小学生とかが猫殺しするのは、
自分が限界をもったひとつの存在であることが
我慢できないからだ。
かれらは馬鹿だからでなく、
知恵をもってしまったがゆえに
愚行に走る……。