小谷野敦「悲望」

 小谷野敦氏の文章は微妙なところで飛躍があってわかりにくい。氏が氏の小説「悲望」への評に怒っている。情念を表現した作品に、道徳を当て嵌めてこきおろすのはやめてくれ、ということなのだが、文藝評論のルールとして道徳評は違反なのだろうか(あたりまえだと返されそうだが、べつに道徳批評が文学を絶滅させるわけではないだろう。←こういう論理も水掛け論の呼び水だが……)。加藤典洋氏の「想像力」は、察するに、ほとんど「遠慮」とおなじだが、その批判をうけた小谷野氏の「想像力」は文藝技法のことになっていて、ここに「微妙な飛躍」がある。

 以下は感想。書きたいから書く、特に暴露小説を書く、という発想は興味深い。たまたまカポーティ「叶えられた祈り」を読みかけて鬱々としている昨今なのだが、小谷野氏の本を読んで、マッカーシー「グループ」も積読してある。マッカーシーは未読なので一括りにできないかもしれないが、「祈り」と「悲望」に共通するのは、孤独と聡明さである。孤独ゆえに聡明さが皮肉に堕ちてしまい更なる孤独におちいる作家ジョーンズ。聡明ゆえに周囲とのギャップを強烈に感じて孤独に陥り恋愛に観念的に没入する大学院生旭。「もてない男」のころから小谷野氏には孤独というテーマ、それも頭のよさがいやおうなく呼び込む種類の孤独というテーマが脈々と流れていた。

悲望

悲望