ゲド戦記

 少年アレンが死の不安にさいなまれて父親を殺すのは、まさしくフロイト的な父殺しの主題に他ならない。父親を殺すことで、アレンは、自分に死をもたらしうる有力な要因を排除したのだ。ここで父親から剣をうばうのも、実にフロイト的で、この剣が終盤まで鞘から抜くことができないという設定も、少年が、性的というより社会的に、不能であることを仄めかしている。

 砂地でハイエナ様の獣にとりかこまれて、アレンがあっけなく命をあきらめるのは、生と死にたいしてきわめて観念的にしか向かい合っていないことを表現している。端的に、アレンは生きることに対して、切実さを感じられないでいるのだ。生きることが喫緊の課題ではなく、不安であり、強迫観念であるのだ。

 アレンは、生きるために父殺しをすることで、生にたいし観念的であることを観客に示し、ハイエナに身を投げ出すことで、死に対しても観念的であることを観客に示したあとで、ゲドが登場し少年アレンの導き手となる。

 まあ以下くだくだしく詳説しないが、「ゲド戦記」は観客におもねらず、作者が自分の言いたいことを言い切った真面目な良品である。是非劇場に足を運ばれたし。ゲドが身を挺し、しずかにアレンに人間の生き死にを説くシーンにはこみあげるものがあった。