どしゃぶりの雨

 フロッグ星の霊長類にあたる生物ポール・トーマスは造化の神のはからいで、テレキネシスクレアボヤンスの能力をもっていた。居ながらにして、欲しいものをまねきよせ、見たい景物をはるかに眺めることのできるポール・トーマスの能力は、彼の知的領域から、表象という機能を、ながい進化の過程でうしなわせるにいたった。


 さて、現在。ポール・トーマス族の一個体であるアンダーソンは、長い思索の果てに、この大宇宙に地球のような天体がありはしないかと夢想した。そして夢想した瞬間に、アンダーソンはクレアボヤンスの能力で、地球の風景を眼前のものとしたのである。なぜならば、この大宇宙のどこにおいても地球は実在のものであり、実在するものを「見る」ことができるのは道理であるからだった。


 地球の様子は、アンダーソンにとって楽しいものだった。地球にもフロッグのように、愛や食や闘争がある。愛の行為で生物は繁殖し、食の行為で個体は膨張し、闘争に参加することで個体数を削減している。ポール・トーマスのアンダーソンは愉悦した。ただアンダーソンに理解のできない行為を、地球霊長類がしていたのは気になった。それは人類の文化行為だった。雑誌のファッション写真にみとれる娘、ポルノ・ヴィデオをまえに生殖器を弄る若年の雄、特殊効果を駆使したファミリー向けの大作映画を鑑賞する親子連れ。アンダーソンはこれらの風景をながめて、かつての祖先がもっていた能力、表象をつかさどった神経系の痕跡がうずいたのだろうか。地球霊長類のことをもっと知りたいとおもった。知は体験よりはじまり、留学のためには親の脛か、過酷なバイトが必須である。しかし彼アンダーソンはフロッグ星の霊長類であり、サイコキネシスによってみずからの身体を地球へ転送すればいいだけの話だった。


 地球においてアンダーソンがまず面くらったのは、個体が発する叫び声に分節化が施されていることであった。フロッグ星では違う。個体が道をあるいていて、おもむろに他所へ転送されたら、通常はそこに生殖器をむきだしにした異性が待ち構えている。そういうものだ。交接を望まないときはフォークをなげつけてから自分を転送させればいい。アンダーソンは地球霊長類のごく間接的な意思表示の体系に夢中になった。かつて表象機能をつかさどっていた神経系の痕跡がびくびくとうずいていた。NHKのすべての語学講座をHDDで予約録画して何度もみた。ポール・トーマスのアンダーソンの第一の興味はセックスだった。つぎにローラースケート。そしてカンフー映画。セックスへの興味は生物として平凡なこと。ローラースケートへの興味は自由運動を制御する面白さ。カンフー映画は暴力行為が映画技術によって編集されていることが面白かった。


 映画の編集。ただ屈強な男がなみいる荒くれ者をなぎたおす。それでもじゅうぶんに面白いと、アンダーソンには思えるのだが、地球霊長類は彼よりも贅沢であったらしい。それらの男たちの動きがリズミカルであることが必須であり、それがひとつの表現であり、快感であったのだ。アンダーソンが表象の魔力を理解し、これに魅せられた瞬間であった。


 アンダーソンは、セックスとローラースケートには、そうそうに飽きてしまった。どちらも究極的には故郷であるフロッグ星でのいとなみと変わりなかったからである。それは交渉と行為のたえまない連鎖。遊びと義務がないまぜになった酩酊感を生きる喜びとみなす人生の流儀にすぎなかったからである。映画こそが男の仕事だぜ、とアンダーソンはひとりごちた。これはアンダーソンが直前にみた青春映画のひとコマにあった主人公のセリフである。中座したアンダーソンは知らないが、そのセリフからきっかり三十五分四十秒後に主人公はロック歌手志望に転向する。


 映画の骨法。それは衝撃と安逸のリズミカルな交代だ。ショック・アンド・リラックス。戦場経験のあるある映画監督はエモーションと言った。さいわいポール・トーマスであるアンダーソンの神経系にもエモーションをつかさどる機能は萎縮していなかった。そして映画の条件。それは映像を使うことだ。これすらもアンダーソンは理解していた。映像と現実の違い。それは映像を撮るということはめんどうくさいということだ。現実はなにもしなくてもそこにあり、ある程度以上の「リアリティ」を備えている。まさしく神の御業。反対に考えれば映像には神の祝福が欠けており、そういう映像にこうまで熱くいれこむ地球霊長類は神に見放されているとも言える。はじめてアンダーソンは地球霊長類に同情した。憐憫といってもいい。


 エモーショナルな映像を、躍動的なリズムで編集する。これが映画だ。そこまではわかったが、それでは地球霊長類の猿真似に終わってしまう。もう一工夫ほしい。そうアンダーソンは思った。彼が思案に暮れているとき、地球霊長類の友人があるアドバイスをくれた。それが、ワンシーン・ワンカット。そしてナガマワシである。「日本の古代の映画人たちが好んだ手法さ」友人の解説がはじまる。「物資の少ない戦時中の日本で開発された映画制作における秘法だったんだ。日本人たちはこの二大手法を自分たちだけで囲いこもうとして、ノートやメモにとることを禁じた。『秘中の秘』とか、カルテルをむすんだ映画会社の頭文字をとって『ABCD包囲網』とか呼んだらしい。しかしどんなに頑張ったところで映画の手法は画面にあらわれてしまうというのに、当時の日本人たちはそのことを知らなかったんだ。鎖国って悲しいね」そうか。ワンシーン・ワンカットにナガマワシ。これか。


インデペンデンス・デイ」という映画があり、「アルマゲドン」という映画がある。地球霊長類はこの二本の映画を賛美するあまり、この映画の発表後数年後に、現実においてもこの映画を模倣した。神に見放された映像の領域を飛び越えて、神の祝福する現実において、地球霊長類の想像力よ栄えあれ、神よ祝福したまえということだ。当時の地球霊長類の科学力では隕石を任意に呼び寄せることはかなわなかったので、旅客機が代用された。旅客機に乗客を乗せたまま隕石の代用としたのは、人身御供という地球霊長類の古代からの風習にのっとったものである。


 とりあえずアンダーソンは異星からの訪問者として、この地球霊長類の儀式を映画として「再現」することによって、地球霊長類への挨拶に代えようと思った。そのためには、儀式と寸分たがわぬ状況を再現してはいけない。文字通りの再現は、映画的な再現ではない。地球霊長類のやっかいさを習得したアンダーソンは満足げに薄ら笑いを浮かべた。愛を愛によって再現してはならず、闘争を闘争によって表現してはならない。だいじなのは緊張と弛緩であって、その緊張を何によって表現しようか。同じく隕石か。いや、それは再現であって表現にはならない。隕石の変わりに、地球霊長類にしたらどうだろう。心理学や精神分析など地球霊長類の新興科学によれば、降り注ぐ隕石も、降り注がれる地上も、両方共に地球霊長類のダイナミックな心的表象であるとの説があり、この感激が、二本の映画を観客をもってして名作といわしめたのだそうな。それならば、その隕石の表象をさらに地球霊長類に変換しても、観客にはおなじような感激を与えられるのではないか。


 それにだいいち、異星の客として、地球霊長類の住居を破壊したり、毀損したりすることがあってはならない。地球霊長類を隕石の代わりにして地上に落下させるアイデアの利点はここにもある。地球霊長類の肉体はどんな高さから落下しても、地球霊長類の住居を破壊しない。撮影者は撮影地への礼を欠いてはならない。


 さっそく撮影にとりかかったアンダーソンは、儀式のための祭壇がきれいに取り払われて、あらたに「グランド・ゼロ」と呼ばれている儀式の地へ降り立った。映画の都はハリウッドと呼ばれ、この大陸の反対側の岸にあるのに、映画賛美の儀式はこちら側の岸で執り行われる。これも地球霊長類特有のまどろっこしさなのかもしれない。その機微についてはそのうち考察しようと思いながら、アンダーソンは、その小さな島にいる住人すべてをサイコキネシスで空の高みへと持ち上げた。空のはるかかなたへ。空中のある一点まで到達したら、彼らを地球の引力に委ねよう。地上に着地するまでに要する時間で、彼らは分節化された音声をちからのかぎりに発するだろう。もしかしたら神を賛美するかもしれない。それらの喧騒が、つまりは「緊張」である。そして地上に着地することで「弛緩」が訪れる。


 造化の神は、フロッグ星のポール・トーマスから、死という機能を奪っていた。地球霊長類の文化活動、情緒の根源にかならず控えているものを。ポール・トーマスのアンダーソンの地球霊長類学習の遍歴はまだまだたくさんの曲折をむかえそうである。 <了>