巨大な皮肉

 チャップリンの「一人殺せば殺人者で、百万殺せば英雄だ」というのは、よく考えたら欺瞞であった。

 シリアルキラーが百万人殺したところで、かれはやはり犯罪者なのだ。

 「戦争英雄」は、国家の依頼によってそれを遂行したのだから、国家はそれに報いなければ収まりが悪い。

 要するに、問題は国家とか共同体の義務と市民の個人生活との対立にあるのだが、「殺人狂時代」のチャップリンは、そこを承知のうえでか黙ってしまって、数の問題を持ち出すことによって、国家を議論の余地ない悪者として槍玉にあげたわけだ。

 重要なのは、当時のチャップリンは、すでに国家の必要がない富裕な個人だったことである。

 「殺人狂時代」で世論の反対にあっても、すぐにイギリスへ転居し、後半生をスイスで優雅に送ることができた。

 「ふつう」の人間はそういうわけにはいかないのだ。

 こういう風に考えてみると、当時のチャップリンには、無条件に同情するわけにはいかなくなってきた。もちろん、何を言ったところで追放されるいわれなどない、言論の自由ではないか、という意味では、チャップリンに同情する。

 しかし、ああいうことを言って、社会の憎悪を受けて、それを難なくかわして外国へ移住(うまれ故郷に帰ったのだが)して、という行動の流れが、チャップリン自身の言論を裏切っていないか。

 もっと深読みしてしまえば、大衆によってスターダムについたチャップリンは、大金持ちになることで、そして、いやおうなしに進む時代に取り残されることで、皮肉しか言えなくなってしまったのではないか。

 皮肉といえば、「ライムライト」の「人生にはほんのちょっぴりのお金と、想像力が必要だ」というのは、ちょっと類のない巨大な皮肉である。たいていの人間には、チャップリンほどの金銭はおろか、想像力だって持ちあわせてはいないのだから。