なぜ論理を尽くさないのか?

「弱い物理心理説」においても、私の存在が「ありえないもの」になるという先の結論は変わらない。この結論は私たち全員を途方に暮れさせる。「この私」にとって、「この私に中心化された世界」というのが永遠の闇であり無であるという可能性のほうが元来はるかに大きいということなのだから。(「多宇宙と輪廻転生」16ページ)


 一般人でも「「この私」にとって、「この私に中心化された世界」というのが永遠の闇であり無であるという可能性のほうが元来はるかに大きい」ということは、考えうることだろう。しかし、それが、なぜ「「弱い物理心理説」においても、私の存在が「ありえないもの」になる」という結論になるのか? 0.01パーセントは、0パーセントではない。なぜ論理を尽くさないのか、という本の帯の言葉は、こういう文章に向けられるべきではないのか?